5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

□□□評論家・三島由紀夫■■■

1 :無名草子さん:2010/03/11(木) 17:36:00
★小説家として有名な三島由紀夫ですが、多くの評論、放談を遺しています。

2 :無名草子さん:2010/03/11(木) 17:37:31
私は別に美食家ではない。おいしいものは好きだけれども、場合によつてはまづいものも好きである。
美食しかできないといふ人は、たとへばローマの「トリマルキオーの饗宴」の主人公のやうに、退廃した人間である。
私は男といふものは、絹のパジャマでも軍隊毛布でも同じやうに平気で寝られる人間であるべきだと思ふ。
絹のパジャマでなくては眠れないといふ人間は、男ではない。
(中略)自衛隊の食事は一日三食二百六十円である。マキシムは一食一万円である。おほむね値段からすれば
百倍である。ではマキシムが百倍だけおいしかつたかといへば、そんなことはない。
自衛隊では自衛隊の食事が相応においしく、マキシムではマキシムの料理が相応においしかつただけのことである。
その場その場でどちらもおいしいと思ふのは私の胃が健康だからであり、そしてそれだけのことである。

三島由紀夫
「美食について」より

3 :無名草子さん:2010/03/11(木) 17:38:52
(中略)人生経験を積むにつれて、いろんなものを食べる機会にぶつかる。
私はエジプトの鶏も、ギリシャのムサカも、…(略)…、タイ料理、インド料理……あらゆるものを食べた。
自衛隊では、縞蛇もガマ蛙も自分で料理して食べた。
しかしこんなものは、毎日ほしいときに食べられたら、別に珍味といふわけではあるまい。
その時、その環境に応じて、むやみにおいしく思はれるときも、まづい時もある。私が外交官になりたくないと
思ふのは、職業として毎日義務的に美食をするほど人生で辛いことはあるまいと思ふからである。
結婚して毎日ご馳走を幾皿も家庭で作らせる亭主を、美食家と思つて、自慢のタネにしてゐる女性は哀れである。
くりかへして言ふが、いはゆる美食家は退廃した人間であり、何を食はせても「うまい」「うまい」と喜んで
平らげる男、女から見たら物足りない男こそ、女性にとつて誇るべき亭主なのである。

三島由紀夫
「美食について」より

4 :無名草子さん:2010/03/11(木) 17:41:26
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点で
もうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家に
なり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」の
スラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。ヤングベ平連の高校生と話したとき、
「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで
含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

三島由紀夫
「劇画における若者論」より

5 :無名草子さん:2010/03/11(木) 17:41:55
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。

三島由紀夫
「劇画における若者論」より

6 :無名草子さん:2010/03/11(木) 23:27:58
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮で
あつても少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少
野蛮なところがなければ、衰亡してしまう。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口の
PTA精神や、青少年保護を名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?

三島由紀夫
「お茶漬ナショナリズム」より

7 :無名草子さん:2010/03/11(木) 23:28:16
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。(中略)
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、日本人の
感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな心情を
鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。しかし…(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…

三島由紀夫
「お茶漬ナショナリズム」より

8 :無名草子さん:2010/03/12(金) 15:30:46
芸術における虚妄の力は、死における虚妄とよく似てゐる。団蔵の死は、このことを微妙に暗示してゐる。
芸道は正にそこに成立する。
芸道とは何か?
それは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。
これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、死なずにしかも「死」と同じ
虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。同時に、芸道には、「いくら本気になつても死なない」
「本当に命を賭けた行為ではない」といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。現実世界に生きる生身の人間が、
ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、永久にフィクションである芸道には、決して
到達することのできない境地である。「死」と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。いかなる
大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。彼はただそれを
表現しうるだけである。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

9 :無名草子さん:2010/03/12(金) 15:31:14
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。今は野球選手や芸能人が
大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。
しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、フィクションの世界観を以て、
心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が
見られないのは、一つは、民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の
質と化するマス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。
さて、芸能だけに限らない。小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。
(小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた「私小説」のやうな例もあるが、
ここではそれに言及する遑(いとま)はない)

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

10 :無名草子さん:2010/03/12(金) 15:31:41
(中略)芸道には、本来「決死的」などといふことはありえない。
…ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、石にかじりついても生きてゐなければ
成就されない道だからである。「葉隠」が、
「芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。これは、唯一偏に貪着(とんちやく)する故なり、愚痴ゆゑ、
余念なくて上手に成るなり。何の益にも立たぬものなり」
と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。「愚痴」とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、
現実のフィクション化の根本動機である。
さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、あらゆるスポーツ、いや、
武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。
それは「死なない」といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

11 :無名草子さん:2010/03/12(金) 15:32:06
(中略)
武士道とは何であらう?
私はものごとに「道」がつくときは、すでに「死」の原理を脱却しかかり、しかも死の巨大な虚妄の力を自らは
死なずに利用しはじめる時であらう、と考へる。武士道は、日常座臥、命のやりとりをしてゐた戦国時代ではなくて、
すでに戦国の影が遠のき、日常生活における死が稀薄になりつつあつた時代に生れた。
真に死に直面してゐた戦闘集団には、それこそ日々の「決死」の行為と、その死への心構へと、死を前にした
人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の
権力のもつとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このやうな、死に直面した
戦闘集団に他ならない。それさへ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに
自分も亦、こつそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

12 :無名草子さん:2010/03/12(金) 15:32:30
私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な「現実権力」として認めるものは、あの挫折した
二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。末松太平氏の「私の昭和史」の次のやうな一節を読むがいい。
天皇の軍隊を天皇の命令なくして、私的にクーデターなどに使ふことに反対してゐた高村中尉(著者の学友)が、
つひに著者に説得されて、理屈よりも友情が勝ち、次のやうに言ふところである。
「『(略)…貴様がやることなら、おれもやるよ。しかしやるまで暇があるなら、そのあいだにできるだけ、
そのおれの疑念を晴らすよう教えてくれ。疑念が晴れなければやらないというのじゃないよ』」
この最後の一句のいさぎよい美しさこそ、永遠に反芸道的なものである。そして芸道を河原乞食と卑しむことが
できるものは、このやうな精神だけであり、固定して腐敗した政治権力には、そのやうな資格はない。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

13 :無名草子さん:2010/03/12(金) 15:34:23
さて、死に直面する戦闘集団の原理は、多少とも武士道に影を宿し、泰平無事の元禄の世にも、赤穂義士の義挙と、
「葉隠」の著作を残した。それが、命のやりとりを再び復活した幕末から維新を経て、人々の心に色濃くのこつてゐた。
このやうな戦闘集団の同志的結合は、要するに、戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒(はんがふ)の飯を喰ひ、
死の機会は等分に見舞ふところの、上長と兵士の間の倫理を要請した。
飛躍するやうだが、旧憲法の統師大権の本質はここにあり、武士道を近代社会へつなぐ唯一のパイプであつたと
思はれるのである。
史家は、明治憲法制定の時、薩摩閥が、国務大権を握つたのに対抗して、長州閥が、天皇に直属する統師大権を
握つて、国務大権から独立した兵馬の権をわがものにしようとした、と説明するが、政治史の心理的ダイナミズムは
そのやうに経過したとしても、統師大権の根本精神は、もつと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に
直属せしめるところにあつたと思はれる。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

14 :無名草子さん:2010/03/12(金) 15:34:57
二・二六事件の悲劇は、統師大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、
甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統師大権の問題である。
シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の権力の
ために死ぬことができるであらうか?
早い話が、「死ぬこととみつけた」武士道は、「死なないですむ」芸道のために、死ぬことができるであらうか?
「死なないですむ」芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、
したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、
唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる
原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。
もちろん、シヴィリアン・コントロールは、天皇の代りに、総理大臣のために死ぬことではない。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

15 :無名草子さん:2010/03/13(土) 07:40:13
男性差別
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E6%80%A7%E5%B7%AE%E5%88%A5

「男性差別」で検索してみよう〜〜〜!


16 :無名草子さん:2010/03/13(土) 13:34:27
電熱器ばやりの今の人には火鉢と云つてもピンと来ないだらうが、むかしは炭火をカンカン起して、鉄の網を
五徳にのせて、東京人が「おかちん」と呼ぶところの餅を、火鉢で焼いて喰べるのが、冬の夜の家庭のたのしみの
一つであつた。その鉄の網目の模様がコンガリと焼けた餅にのこり、私たちは、熱い餅をフーフー吹きながら、
醤油をかけて、おいしく喰べたものだ。
さて、いくら早く焼きたいからと云つて、餅を炭火につつこんだのでは、たちまち黒焦げになつて、喰べられた
ものではない。餅網が適度に火との距離を保ち、しかも火熱を等分に伝達してくれるからこそ、餅は具合よく
焼けるのである。
さて、法律とはこの餅網なのだらうと思ふ。餅は、人間、人間の生活、人間の文化等を象徴し、炭火は、人間の
エネルギー源としての、超人間的なデモーニッシュな衝動のプールである潜在意識の世界を象徴してゐる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

17 :無名草子さん:2010/03/13(土) 13:36:17
人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけではすぐ枯渇してしまふ、
ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅をもたらす危険を内包してゐる。
ではその危険を排除して、安全で有益な活動だけを発展させようといふ試みは、むかしからさかんに行はれたが、
一度も成功しなかつた。
どんなに安全無害に見える人間活動も、たとへば慈善事業のやうなものでも、その事業を推進するエネルギーは、
あの怖ろしい炭火から得るほかはない。一例が、プロヒューモ氏は、例の醜聞事件以後、すばらしく有能な
慈善事業家として更生してゐるさうである。
人間の餅は、この危険な炭火の力によつて、喰へるもの、すなはち社会的に有益なものになる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

18 :無名草子さん:2010/03/13(土) 13:39:23
しかし、もし火に直接に触れれば、喰へないもの、すなはち社会的に無益有害なものになる。だから、餅と火の
あひだにあつて、その相干渉する力を適当に規制し、餅をほどよい焼き加減にするために、餅網が必要になるのである。
たとへば殺人を犯す人間は、黒焦げになつた餅である。そもそもさういふ人間を出さないやうに餅網が存在して
ゐるのだが、網のやぶれから、時として、餅が火に落ちるのはやむをえない。さういふときは、餅網は餅が
黒焦げになるに委(まか)せる他はない。すなはち彼を死刑に処する。餅網の論理にとつては、罪と罰は
一体をなしてゐるのであつて、殺人の罪と死刑の罰とは、いづれも餅網をとほさなかつたことの必然的結果であつて、
彼は人を殺した瞬間に、すでに地獄の火に焼かれてゐるのだ。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

19 :無名草子さん:2010/03/13(土) 13:41:24
そして責任論はどこまで行つてもきりがなく、個人的責任と社会的責任との継目は永遠にはつきりしないが、
少くとも、殺人といふ罪が、人間性にとつて起るべからざることではなく、人間の文化が、あの怖ろしい炭火に
恩恵を蒙(かうむ)つてゐるかぎり、火は同時に殺人をそそのかす力にさへなりうるのである。かくて、終局的に、
責任は人間のものではないとする仏教的罪の思想も、人間には原罪があるとするキリスト教的罪の思想も
生れてくるわけであるが、餅網の論理は、そこまで面倒を見るわけには行かない。
ただ、餅網にとつていかにも厄介なのは、芸術といふ、妙な餅である。この餅だけは全く始末がわるい。
この餅はたしかに網の上にゐるのであるが、どうも、網目をぬすんで、あの怖ろしい火と火遊びをしたがる。
そして、けしからんことには、餅網の上で焼かれて、ふつくらした適度のおいしい焼き方になつてゐながら、
同時に、ちらと、黒焦げの餅の、妙な、忘れられない味はひを人に教へる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

20 :無名草子さん:2010/03/13(土) 13:42:26
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり文化財となる。
それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。古典的名作はそのやうな意味での完全犯罪であつて、
不完全犯罪のはうはまだしもつかまへやすい。黒焦げのあとがあちこちにちらと残つてゐて、さういふところを
公然猥褻物陳列罪だの何だのでつかまへればいいからである。
それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら焼けることだけを
目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げてしまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の
偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な傑作になる機会を逸してしまふといふことである。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

21 :無名草子さん:2010/03/14(日) 11:23:12
音楽は生活必需品かといふと、人によつてちがふだらうが、私にとつては必ずしもさうではない。それは思考を
妨げるからだ。私には、音楽の鳴つてゐる部屋で物を考へるなど、狂気の沙汰としか思はれない。このごろの
青少年がジャズをききながら試験勉強をしてゐるのを見ると、私と別人種の感を新たにする。
では、音楽は休息の楽しみとして必要だらうか。私にとつては必ずしもさうではない。机に向かふのが仕事の私には、
休息とは、体を動かすことである。運動にはそれ自体のリズムがあつて、音楽を要しない。アメリカのジムなどで、
ムード・ミュージックを流してゐるところがあつたが、何だか運動に力が入らなくて困つた。
では、私にとつて音楽とは何なのだらうか。それは生活必需品でもなければ、休息の楽しみでもない。
それは誘惑なのである。

三島由紀夫
「誘惑――音楽のとびら」より

22 :無名草子さん:2010/03/14(日) 11:23:47
むかし米軍占領時代に、家から三丁ばかり離れた大きな邸が接収されてゐて、週末といふと舞踏会が催ほされるらしく、
夜風に乗つてダンス音楽がかすかに流れてきて、食糧難時代の新米文士の仕事を攪乱したものだつた。
しかし、その音楽には、今そこにないものへの強烈な誘惑があつた。「今そこにないもの」を、音楽ほど強烈に
暗示し、そこへ向つて人を惹き寄せるものはない。もちろんただの幻である映画だつてさうかもしれない。
が、音楽のこの誘惑の力を借りてゐない映画はきはめて稀である。
「今そこにないもの」にもピンからキリまである。ピンは天国から、キリはつまらない観光的な熱帯の小島まである。
ピンは、人間精神の絶顛から、キリは性慾の満足まである。それに従つて、音楽にもピンからキリまであるわけだが、
かう考へると、音楽は生活必需品でなくても、人生の必需品、むしろその本質的なものとも思はれる。
「今そこにないものへの誘惑」にこそ、生の本質があるからである。

三島由紀夫
「誘惑――音楽のとびら」より

23 :無名草子さん:2010/03/14(日) 11:52:05
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。
男は愛することにおいて、無器用で、下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに無恰好である。
どうしても「愛する」コツといふものがわからないし、要するに、どうしていいかわからないのである。
先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。
どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、そこには何か有無を言わせぬ力がある。
男の「有無を言わせぬ力」といふのは多くは暴力だが、女の場合は純粋な精神力である。
どんなに金目当ての、不純な愛し方をしてゐる女でも、愛するといふことだけに女の精神力がひらめき出る。
非常に美しい若い女が、大金持の老人の恋人になつてゐるとき、人は打算的な愛だと推測したがるが、それは
まちがつてゐる。打算をとほしてさへ、愛の専門家は愛を紡ぎ出すことができるのだ。

三島由紀夫
「愛するといふこと」

24 :無名草子さん:2010/03/15(月) 23:45:11
…この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。
このやうな怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場に
おいてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。

三島由紀夫
「実感的スポーツ論」

25 :無名草子さん:2010/03/15(月) 23:45:49
私は今ではこの叫びを切に愛する。
このやうな叫びに目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。
それが私の口から出、人の口から出るのをきくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る
新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、
……その叫びと一体化することのもつとも危険な喜びを感じずにゐられない。
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い
「精神主義」の風味なのだ。私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、
あくまでその反時代性を失はないことを望む。

三島由紀夫
「実感的スポーツ論」より

26 :無名草子さん:2010/03/15(月) 23:48:54
テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところであるので、
どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。
私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで
時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。
子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。
子供のウソは、子供の夢と結びついてゐるからである。

三島由紀夫
「わが育児論」より

27 :無名草子さん:2010/03/16(火) 14:21:28
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、
一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に
対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

三島由紀夫
「愛国心」より

28 :無名草子さん:2010/03/16(火) 14:21:50
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の
花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。
日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。従つて、「人類愛」といふのなら
多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の
裡にしか、理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。

三島由紀夫
「愛国心」より

29 :無名草子さん:2010/03/16(火) 14:22:09
ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を
してゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては
変りがない、といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の
感情に基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と
日本人の愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、
この種の陥穽を含んでゐる。(中略)
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。

三島由紀夫
「愛国心」より

30 :無名草子さん:2010/03/16(火) 14:22:28
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、
合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。
国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、
かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく
日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、
使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。

三島由紀夫
「愛国心」より

31 :無名草子さん:2010/03/16(火) 14:23:09
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間に
この心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、
あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、
彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた考へだと言へるであらう。

三島由紀夫
「愛国心」より

32 :無名草子さん:2010/03/17(水) 15:14:21
私は坂口安吾氏に、たうとう一度もお目にかかる機会を得なかつたが、その仕事にはいつも敬愛の念を寄せてゐた。
戦後の一時期に在つて、混乱を以て混乱を表現するといふ方法を、氏は作品の上にも、生き方の上にも貫ぬいた。
氏はニセモノの静安に断じて欺かれなかつた。言葉の真の意味においてイローニッシュな作家だつた。
氏が時代との間に結んだ関係は冷徹なものであつて、ジャーナリズムにおける氏の一時期の狂熱的人気などに
目をおほはれて、この点を見のがしてはならない。
些事にわたるが、氏の「風博士」その他におけるポオのファルスに対する親近は、私にもひそかな同好者の
喜びを与へた。ポオのファルスの理解者は今もなほ氏を措いて他にない。かつて「十三時」を訳した鴎外を除いては。

三島由紀夫
「私の敬愛する作家」より

33 :無名草子さん:2010/03/17(水) 15:19:40
梶井基次郎の作品では、「城のある町にて」が一番好きだが、この蒼穹」も、捨て難い小品である。小説ではなくて、
一篇の散文詩であり、今日ではさう思つて読んだはうがいい。
この作者が、死の直前、本当の小説家にならうとして書いた「のんきな患者」をほめる人もあるが、私には、
氏は永久に小説家にならうなどと思はなかつたはうがよかつたと思はれる。この人は小説家になれるやうな
下司な人種ではなかつたのである。
「蒼穹」は、青春の憂鬱の何といふ明晰な知的表出であらう。何といふ清潔さ、何といふ的確さであらう。
白昼の只中に闇を見るその感覚は、少しも病的なものではなく、明晰さのきはまつた目が、当然見るべきものを
見てゐるのである。
健康な体で精神の病的な作家もゐれば、梶井基次郎のやうに病気でゐながら精神が健康で力強い作家もゐる。
同じ病気でも、梶井には堀辰雄にない雄々しさと力のあるところが好きである。

三島由紀夫
「捨て難い小品」より

34 :無名草子さん:2010/03/17(水) 22:29:41
私は大体笑ふことが好きであり、子供のころから「この子を映画へ連れてゆくと、突拍子もないところで
ケタケタ笑ひ出して、きまりわるい」とおとなにいはれた。徳大寺公英氏の思ひ出話によると、中学時代も、
教室でキャッキャッと一きは高い笑ひ声がするので、私がゐることがわかる、と先生がいつてゐたさうである。
おとなになつても、福田恆存氏の「キティ颱風」の招待日などには、拍手役ならぬ、笑声のサクラに狩り出された。
うしろのはうの席に、宮田重雄氏はじめ、笑ひの猛者がそろつてゐて、セリフの一言半句ごとに、声をそろへて
ゲラゲラ笑ふのである。するとそれにつられて笑ひ出すお客がある。福田氏は、新劇の観客層のシンネリムッツリを、
よほどおそれてゐたのである。
俳優のT君が、「君の貧弱な体格からすると、笑ひ声だけが大きくて不自然だから、後天的に自分で育成これ
つとめたものだらう」といつたが、これはマトをそれてゐる。私の肺活量はこれでも四千七百五十もある。

三島由紀夫
「わが漫画」より

35 :無名草子さん:2010/03/17(水) 22:30:10
漫画は、かくて、私の生理衛生上必要不可欠のものである。をかしくない漫画はごめんだ。何が何でもをかしく
なくてはならぬ。おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画を私は愛する。
悩殺する、とか、笑殺する、とかいふ言葉は、実存主義ふうに解すると、相手を「物」にしていまふことだと思はれる。
「人を食ふ」といふのもこれに等しい。われわれは他人の人格を食ふことはできぬ。相手を単なる物、単なる
肉だと思ふから、食ふことができる。
漫画はだから「食はれる状態」をうまく作りあげねばならぬ。「物」になつてゐなければならぬ。
知的な漫画ほどこの即物性がいちじるしく、低級な漫画ほど、笑ひ話の物語性だの、教訓性だの、によりかかつてゐる。
下手な落語家は「をかしいお話」を語るにすぎないが、名人の落語家ほど、笑はれるべき対象を綿密に造形して、
話の中に「笑はれるべき物」を創造してゐるのである。
何もいはゆる、サイレント漫画が知的だといふのではない。
言葉がない代りに、社会の良風美俗に逆によりかかつてわからせてゐるやうな、不心得な漫画も散見する。

三島由紀夫
「わが漫画」より

36 :無名草子さん:2010/03/17(水) 22:30:38
漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを
仕入れて来なければならないのだ。あらゆる倒錯は漫画的であり、あらゆる漫画は幾分か倒錯的である。
そして倒錯的な漫画が、人を安心して笑はせるやうではまだ上等な漫画とはいへぬ。
日本の漫画がジャーナリズムにこびて、いはゆる社会的良識にドスンとあぐらをかいて、そこから風俗批評、
社会批評をやらかして、それを漫画家の使命だと思つてゐる人が少なくないのは、にがにがしいことである。
もつとも漫画的な状況とは、また永遠に漫画的状況とは、他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて
見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐる
といふ状況である。漫画は、この第二のダイナマイトを仕掛けるところに真の使命がある。

三島由紀夫
「わが漫画」より

37 :無名草子さん:2010/03/17(水) 22:31:01
あんまりのんびりしてゐると、ほかならぬ漫画家自身が、右のやうな漫画を演じなければならぬことになりますぞ!
さて私も、かういふ商売をやつてゐて、何やかと漫画に描かれることが多い。この一文で、漫画家諸氏のお名前を
一つもあげなかつたのは、かかる職業上のおもんぱかりであるが、われわれ文士も「素人時評」といふやつは、
ほとほとにがにがしい、イヤ味なものだと思つてゐるのである。
小説書きでないやつに、小説なんてわかるものか!
漫画家でないやつに、漫画なんてわかつてたまるものか!
それでよろしい。
さて、一つの漫画は、小説家が、かういふ雑文をたのまれて、をかしくもない文章を、頭から湯気を立てて
書いてゐる、といふその状況である。

三島由紀夫
「わが漫画」より

38 :無名草子さん:2010/03/22(月) 11:09:51
芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは観客に対する
思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、実は同じ根から生れたものである。
本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。

三島由紀夫
「無題『新劇』扉のことば」より

39 :無名草子さん:2010/03/22(月) 11:54:37
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるい
ものはない。
さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに
対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの
伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人
としてよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代にインディアンと
戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。(中略)
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的
危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、
あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。

三島由紀夫
「西部劇礼讃」より

40 :無名草子さん:2010/03/22(月) 12:29:42
ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間でありながら、人生を扱ふ
芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に危険が伴ひ、その結果、
彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、生きながら亡霊になるのである。
そして、医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体
美しい人生や人間の心も、それを扱ふ人間には、いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。
多少ともかういふ毒素に犯されてゐない人間は、芸術家と呼ぶに値ひしない。

三島由紀夫
「楽屋で書かれた演劇論」より

41 :無名草子さん:2010/03/22(月) 12:42:47
こいつほどチキンハートのショボイ男見たことない

42 :無名草子さん:2010/03/22(月) 16:02:06
なんて魅力的なんだ。漫画好きって初めて知ったよ。

43 :無名草子さん:2010/03/22(月) 16:59:53
川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない
ことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の
西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか見えないか
といふ色合の差にすぎない。(中略)
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、
荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に
敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。(中略)
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。西洋
イコール批評と云つても差支へない。(中略)
川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた。氏の最も
西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが私の意見である。

三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より

44 :無名草子さん:2010/03/22(月) 20:42:54
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は〈本心からではない〉ことをバタイユは冷酷に指摘する。
その〈本心〉こそ、バタイユの〈エロティシズム〉の核心であり、ウィーンの俗悪な
精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫「小説とは何か」より

45 :無名草子さん:2010/03/22(月) 23:53:09
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、
肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。
精神の羞恥心が肉を身にまとはせる。それこそ完全な美しい芸術の定義である。
羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。

三島由紀夫
「ボディ・ビル哲学」より

46 :無名草子さん:2010/03/23(火) 11:32:50
…子供のころは、それでも銀座へ連れて行つてもらふことは、うれしいことであつた。(中略)
そのころマツダ・ビル楼上のニュー・グランドの部分が、赤、青、緑、黄に変幻して、サーチライトの光芒を
ひろびろと投げかけてゐた。
私は父母につれられて、そのニュー・グランドや、ローマイヤ・レストランへ行くとき、子供らしい虚栄心を
満足させられた。そのころケストネルの少年小説「点子ちやんとアントン」に夢中になつてゐて、その小説に
出てくる「泡雪クリーム」といふものを、何とかして喰べたいと憧れてゐた。しかし「泡雪クリーム」なるものは、
どこにも売つてゐなかつた。
銀座へ行けは何でも売つてゐると思ふのはまちがひだ、といふことに気がついたのはそれがはじめである。
今でも銀座で決して売つてゐないもので、私がもう一度喰べてみたいと思ふものが一つある。それは戦争中、
海軍の工場で、飯のおかずに喰はされて、こんなに旨いものはないと思つたところの、ポテト・チョップの
やうな形をした、大豆粕をいためた奴である。

三島由紀夫「わが銀座」より

47 :無名草子さん:2010/03/23(火) 11:40:41
大体アメリカの貧乏は日本の貧乏よりすご味があります。
たとへば年金制度が発達して、隠退後の老人は働かないでいい、といへば結構なやうだが、さういふ老人は
どうやつて余生を送るだらう。ある寒い午後、友人とセントラル・パークへ散歩に行き、小高い丘の上にある
六角堂みたいな建物に入つてみると、その中は暖房がしてあつて、たゞで西洋将棋ができるやうになつてゐる。
むうつとするたばこの煙のなかで、行き場のない老人ばかりが、じつとチェスの卓を囲んでゐる。長寿の顔の
深い皺。……スチームのそばのベンチは、ただ放心したやうに腰かけてゐる老人で一ぱいだ。
日本の縁台将棋のやうなにぎやかさはなくて、私は一種凄愴の気を感じて、いそいで立去りました。

三島由紀夫「旅の絵本 ニューヨークの炎」より

48 :無名草子さん:2010/03/23(火) 12:32:12
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。
蛍光灯の下では美人も幽霊のやうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、
あまり美味しくもなささうな色の料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、蝋燭が用ひられだした。磨硝子(すりガラス)の円筒形のなかに蝋燭を
点したのが卓上に置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した
女は、周囲の暗い喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した
目の煌めきまでがいきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も蝋燭に如くものはないらしい。
そこで今度は古来の提灯(ちやうちん)がかへり見られる番であらう。

三島由紀夫「蝋燭の灯」より

49 :無名草子さん:2010/03/23(火) 12:34:33
…私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。内玄関の鴨居には、家紋を
つけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、それらが一家の
避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。
江戸時代の庶民の発明した紙のシャンデリアである。

三島由紀夫「蝋燭の灯」より

50 :無名草子さん:2010/03/23(火) 17:12:40
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、
戦死した彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふ
シーンがあつた。甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが
論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。

三島由紀夫
「『青春監獄』の序」より

51 :無名草子さん:2010/03/23(火) 17:15:46
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者で
あつた人の書くものも、一般人を納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。
私の読みたいのは、動物学者の書いた狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。狼がどんなに
嘘を並べても、狼の目に映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。私は何も礼を失して、宮崎氏を狼呼ばはり
するのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に貴重なのである。(中略)
軍隊そのものも、決して日本および日本人にとつて、突然変異的な発生物ではなかつた。その社会的必然、
経済学的必然は自明であり、兵隊のもつてゐた平均的情緒、平均的悲哀は、日本人の内に深く根ざし、今日
おもてむき軍隊をもたない日本にも、この種の感性は、依然普遍的に潜在してゐる。

三島由紀夫
「『青春監獄』の序」より

52 :無名草子さん:2010/03/23(火) 17:21:11
私の貧しい感想が、この本に何一つ加へるものがないことを知りながら、次の三点について読者の注意を
促しておくことは無駄ではあるまいと思ふ。
第一は、もつとも苛烈な状況に置かれたときの人間精神の、高さと美しさの、この本が最上の証言をなしてゐる
ことである。玉砕寸前の戦場において、自分の腕を切つてその血を戦友の渇を医やさうとし、自分の死肉を以て
戦友の飢を救はうとする心、その戦友愛以上の崇高な心情が、この世にあらうとは思はれない。日本は戦争に
敗れたけれども、人間精神の極限的な志向に、一つの高い階梯を加へることができたのである。
第二は、著者自身についてのことであるが、人間の生命力といふもののふしぎである。
舩坂氏の生命力は、もちろん強靭な精神力に支へられてのことであるが、すべての科学的常識を超越してゐる。

三島由紀夫
「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

53 :無名草子さん:2010/03/23(火) 17:21:59
あらゆる条件が氏に死を課してゐると同時に、あらゆる条件が氏に生を課してゐた。まるで氏は、神によつて
このふしぎな実験の材料に選ばれたかのやうだ。(中略)
体力、精神力、知力に恵まれてゐたことが、氏を生命の岸へ呼び戻した何十パーセントの要素であつたことは
疑ひがないが、のこりの何十パーセントは、氏が持つてゐたあらゆる有利な属性とも何ら関はりがないのである。
それでは、ひたすら生きようといふ意志が氏を生かしてゐたか、といふと、それも当らない。氏は一旦、
はつきりと自決の決意を固めてゐたからである。

三島由紀夫
「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

54 :無名草子さん:2010/03/23(火) 17:23:42
氏が拾つた命は、神の戯れとしか云ひやうがないものであつた。その神秘に目ざめ、且つ戦後の二十年間に、
その神秘に徐々に飽きてきたときに、氏の中には、自分の行為と、行為を推進した情熱とが、単なる僥倖としての
生以上の何かを意味してゐたにちがひない、といふ痛切な喚起が生じた。その意味を信じなければ、現在の生命の
意味も失はれるといふぎりぎりの心境にあつて、この本が書き出されたとき、「本を書く」といふことも亦、
一つの行為であり、生命力の一つのあらはれであるといふことに気づくとは、何といふ逆説だらう。
氏はかう書いてゐる。「彼ら(英霊)はその報告書として私を生かしてくれたのだと感じた」
(中略)そして氏の見たものは、他に一人も証人のゐない地獄であると同時に、絶巓における人間の美であつた。

三島由紀夫
「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

55 :無名草子さん:2010/03/24(水) 10:34:09
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。
わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。

三島由紀夫
「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

56 :無名草子さん:2010/03/24(水) 10:34:54
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と切り離せぬ関係を
持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもないニヒリストであつた。
日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。

三島由紀夫「新ファッシズム論」より

57 :無名草子さん:2010/03/24(水) 10:57:57
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も
負はずに社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、
子供も読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を
置くのも困る。みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。

三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より

58 :無名草子さん:2010/03/24(水) 11:39:21
…氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的
帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、
対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女に
とどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに
対する興味だと思はれる。
…しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、それと反対の極の
知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。生命は讃仰されるが、接触したが最後、
破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも
破壊されることなしに、太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

59 :無名草子さん:2010/03/24(水) 11:39:43
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、
私の胸を搏つた。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

60 :無名草子さん:2010/03/24(水) 22:17:06
近代日本文学史において、はじめて、「芸術としての批評」を定立した人。
批評を、真に自分の言葉、自分の文体、自分の肉感を以て創造した人。
もつとも繊細な事柄をもつとも雄々しく語り、もつとも強烈な行為をもつとも微妙に描いた人。
美を少しも信用しない美の最高の目きき。獲物のをののきを知悉した狩人。
あらゆるばかげた近代的先入観から自由である結果、近代精神の最奥の暗部へ、づかづかと素足で
踏み込むことのできた人物。
行為の精髄を言葉に、言葉の精髄を行動に転化できる接点に立ちつづけた人。
認識における魔的なものと、感覚における無垢なものとを兼ねそなへた人。
知性の向う側に肉感を発見し、肉感の向う側に精神を発見するX光線。
遅疑のない世界、後悔のない世界、もつとも感じ易く、しかも感じ易さから生ずるあらゆる病気を免かれた世界。
一個の野蛮人としての知性。
一人の大常識人としての天才。

三島由紀夫
「小林秀雄頌」より

61 :無名草子さん:2010/03/25(木) 12:08:39
青春といふものは明るいと思へば暗く、暗いと思へば明るく、自分がその渦中に在るあひだは五里霧中であり
ながら、時経てかへりみると、村の教会の尖塔のやうにくつきりと日を受けて輝やいてゐる。意味があると
思へばあり、ないと思へばなく、生の激湍(げきたん)と死の深淵とにふたつながら接し、野心と絶望を併せ
蔵してゐる。ティボーデが、小説に青年を書いて成功したものの少ないことを指摘してゐるのは、青春の
かういふ特質によるのであらう。いはば深海魚が大気の中に引揚げられると変形されてしまふやうに、青春の
姿は、さういふ変形された形でしかとらへられぬものかもしれない。
しかし青春も亦、病気のやうに、一人一人がその中を生きるもので、いづれは治る病気ではあるけれど、療法を
あやまると、とりかへしのつかないことになる。

三島由紀夫「あとがき『青春をどう生きるか』」より

62 :無名草子さん:2010/03/25(木) 12:20:00
私はショッピングが大きらひだ。店のなかをウロウロして、十軒も二十軒も東京中を歩いて、やつと一本の
ネクタイを買ふ人があるが、時間が惜しくてとてもあんな真似はできない。私の買物は即興詩みたいなものだ。
町を歩いてゐて、視界のはじつこのはうに、ちよつと気に入つたネクタイが目に入る。と間髪を入れずそれを
買ふのである。今のチャンスをのがしたら、その同じネクタイが気に入ることは二度とないだらうと感じるからだ。(中略)
本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。私は到底お洒落の
資格はない。せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。
靴下のことまで考へるのは面倒くさい。しかしもし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、
もう一歩進んで、自分の頭の中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。

三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より

63 :無名草子さん:2010/03/25(木) 12:39:50
三島由紀夫がゴジラとトパーズについて書いたのって残ってないの?
トラ・トラ・トラのホワイトハウスの前の落ち葉が美しいっていう文章は発見したけど。

64 :無名草子さん:2010/03/25(木) 16:05:41
>>63
今のところ見たことないかな。

65 :無名草子さん:2010/03/25(木) 17:37:27
>>64
じゃあやっぱり噂だけなのかな。
ゴジラは公開当時に三島だけが褒めてて東宝の田中友幸pが嬉しがったとか。
トパーズはスパイ組織の女優が死ぬ場面でスカートが広がるのが良かった、
あれはヒッチコックの最高傑作である、って三島が言ったという話を良く聞くんだけど。

「トラ・トラ・トラ!」のホワイトハウスの前を落ち葉が舞っているっていうのは、
ワイズ出版の「三島由紀夫映画論集成」の石堂淑郎との対談で喋っていた。
小林桂樹が東条英機をやった「軍閥」と比べて、ああいう落ち葉のような詩情は
日本人には描けない感覚だって絶賛していた。

66 :無名草子さん:2010/03/25(木) 19:07:47
>>65
当時の映画雑誌などのコメントとかは、全集で取りこぼしてるのもあるかもよ。
対談も全集に収録されてないのがあるようです。

67 :無名草子さん:2010/03/26(金) 10:12:17
恋愛では手放しの献身が手放しの己惚れと結びついてゐる場合が決して少なくない。
しかし計量できない天文学的数字の過剰な感情の中にとぢこめられてゐる女性といふものは、はたで想像するほど
男をうるさがらせてはゐないのだ。それは過剰の揺藍(ゆりかご)に男を乗せて快くゆすぶり、この世の
疑はしいことやさまざまなことから目をつぶらせて、男をしばらく高いいびきで眠らせて
しまふのである。私は時には、さういふ催眠剤的な女性を好む。

三島由紀夫「好きな女性」より

68 :無名草子さん:2010/03/26(金) 10:32:59
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ
男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのを
いつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。(中略)
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな
道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義は
いつも女性的なものである。男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと
曲げられた。そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

69 :無名草子さん:2010/03/26(金) 10:33:29
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。人間的立場から
固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、
ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を
包んでゐる。それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いて
ゐるからである。これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことで
あつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、
その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を
男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

70 :無名草子さん:2010/03/27(土) 11:57:43
廃墟といふものは、ふしぎにそこに住んでゐた人々の肌色に似てゐる。ギリシャの廃墟はあれほど蒼白であつたが、
ここウシュマルでは、湧き立つてゐる密林の緑の只中から、赤銅色の肌をした El Adivino のピラミッドが
そそり立つのだ。その百十八の石階には古い鉄鎖がつたはつてをり、むかしマキシミリアン皇妃がろくろ仕掛の
この鎖のおかげで、大袈裟にひろがつたスカートのまま、ピラミッドの頂きまで登つたのである。
そこらの草むらには、はうばうに石に刻んだ雨神の顔が落ちてゐた。この豊饒の神の顔は怒れる眉と爛々たる
目と牙の生えた口とをもち、鼻は長く伸びてその先が巻いて象の鼻に似、しばしば双の耳の傍から男根を突き
出してゐる。(中略)
大宮殿はおそらくその下に石階を隠してゐる平たい広大な台地の上にあつた。この正面に相対して、二頭の
ジャグワの像を据ゑた小さい台地があり、さらに宮殿の入口の前には、巨大な男根が斜めにそびえてゐた。

三島由紀夫「旅の絵本 壮麗と幸福」より

71 :無名草子さん:2010/03/27(土) 11:58:13
壮麗な建築がわれわれに与へる感動が、廃墟を見る場合に殊に純粋なのは、一つにはそれがすでに実用の目的を
離れ、われわれの美学的鑑賞に素直に委ねられてゐるためでもあるが、一つには廃墟だけが建築の真の目的、
そのためにそれが建てられた真の熱烈な野心と意図を、純粋に呈示するからでもある。この一見相反する二つの
理由の、どちらが感動を決定するかは一口に云へない。しかし廃墟は、建築と自然とのあひだの人間の介在を
すでに喪つてゐるだけに、それだけに純粋に、人間意志と自然との鮮明な相剋をゑがいてみせるのである。
廃墟は現実の人間の住家や巨大な商業用ビルディングよりもはるかに反自然的であり、先鋭な刃のやうに、
自然に対立して自然に接してゐる。それはつひに自然に帰属することから免れた。それは古代マヤの兵士や
神官や女たちのやうには、灰に帰することから免れた。と同時に、当時の住民たちが果してゐた自然との媒介の
役割も喪はれて、廃墟は素肌で自然に接してゐるのである。

三島由紀夫「旅の絵本 壮麗と幸福」より

72 :無名草子さん:2010/03/27(土) 11:58:46
殊に神殿が廃墟のなかで最も美しいのは、通例それが壮麗であるからばかりではなく、祈りや犠牲を通して神に
近づかうとしてゐた人間意志が、結局無効にをはつて挫折して、のび上つた人間意志の形態だけが、そこに
残されてゐるからであらう。かつては祈りや犠牲によつて神に近づき、天に近づいたやうに見えた大神殿は、
廃墟となつた今では、天から拒まれて、自然――ここではすさまじいジャングルの無限の緑――との間に、
対等の緊張をかもし出してゐる。神殿の廃墟にこもる「不在」の感じは、裸の建築そのものの重い石の存在感と
対比されて深まり、存在の証しである筈の大建築は、それだけますます「不在」の記念碑になつたのである。
われわれが神殿の廃墟からうける感動は、おそらくこの厖大か石に呈示された人間意志のあざやかさと、
そこに漂ふ厖大な「不在」の感じとの、云ふに云はれぬ不気味な混淆から来るらしい。

三島由紀夫「旅の絵本 壮麗と幸福」より

73 :無名草子さん:2010/03/30(火) 10:05:16
現代の若い人たちの特徴として、欲望の充足そのものをあまり重要なものとしてゐないのではないかと僕は思ふ。
それは欲望を充足してから後に、いつも「たしかこれだけではないはずだ」といふやうな飢餓の気持に襲はれて、
その感じの方が欲望の充足といふことよりも強く来てしまふんです。女の人に関しては、まだまだ欲望の
充足といふことは大問題かもしれないけれども、若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんて
ことは、ほとんどないんぢやないかと思ふ。(中略)
今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、人間のかなり大事な
一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。その一つの現はれがペッティングなどといふことに
なるんだけれども、これからますますかういふ傾向がひどくなるんぢやないかと思ふ。その結果、若い人たちの
性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりがなくなり、非常にニヒリスティックになる
といふことは言へると思ふ。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

74 :無名草子さん:2010/03/30(火) 10:05:47
たとへば明治時代の立身出世主義のやうに一つの公認されてゐる社会的欲望が、大多数の人たちを動かして
ゐた時代もあるわけです。さうすると、社会的欲望の充足が、だれが見ても間違ひのない社会における完全な
勝利になる。さういふ時代には、あらゆる条件がそれに伴つて動いてゐたと思ふんです。たとへば上昇期の
資本主義の時代、さうして日本が近代国家として統一されて、まだ間もない時代、しかも恋愛の自由がまだ
完全にない時代――もちろんプロスティチュートはたくさんゐたし、さういふことの満足は幾らでも得られた
けれども、普通の恋愛がまだ非常に困難であつた時代、従つてたとひ男がプロスティチュートを買つても、
精神的に非常にストイックだつた時代、さういふ頃には、欲望の充足といふことは、みんな一つの大きな方向に
向つた大事業だつたといつていいと思ふ。だからさういふ立身出世主義みたいな世俗的なものの裏返しとしては、
あの時代は理想主義の時代だつたとも言へるかもしれない。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

75 :無名草子さん:2010/03/30(火) 10:06:19
けれども今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、欲望の充足が非常に
簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆にどうやつてもいろいろな社会的な欲望の
充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。たとへば今学校で子供たちに、将来何になりたいかと
聞いたならば、大臣になりたいなどといふ子供はあまりゐないだらうし、大将などはなくなつてしまつた
やうなものだし、みんなのなりたいものは、プロ野球の選手だとか映画俳優くらゐしかなくなつてしまつた。
さうして社会が一種の袋小路に入つてゐて、未来の日本の希望といふものもあまり見られないし、社会そのものが
今発展期にないといふことが、非常に概念的な言ひ方だけれども、簡単に欲望が満足させられてしまふ悲しさ、
空虚感に、ますます拍車をかけてゐるといふ感じがする。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

76 :無名草子さん:2010/03/30(火) 10:06:50
そこで欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。
ヒロポンとかパチンコとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに入つて来ると思ふのです。
だから性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、もし性欲が非常に
簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。それはある場合においては賭事であつてもいいし、
目先の小さな刺激であつてもいいし、何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことに
なれば、ほかの欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、ほかの
欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことになつてしまへば、ほかもみんな
くだらなくなつてしまふ。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

77 :無名草子さん:2010/03/30(火) 10:07:15
それが両方から鏡のやうに相投射してゐるから、何も女の子を追つかけなくても、ヒロポンを打つてゐれば
いいといふことになる。さうしてヒロポンがこはいといふ人は麻雀をやつてゐればいいといふことになる。
さういふ点から見てみると、案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れて
めちやくちやになつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないでパチンコ
ばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、一方では女の子と
ちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも多いんぢやないか。従つてすべてに
欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。
(談)

三島由紀夫「欲望の充足について」より

78 :無名草子さん:2010/03/30(火) 19:43:30
人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を押し込むところを見たが、
玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、
この規模を大きくしたやうなものである。ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。
その自然の肉に、コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。

「『沈める滝』について」より

79 :無名草子さん:2010/03/30(火) 23:24:01
三島と鶴田浩二が週刊プレイボーイで対談したのの採録きぼん。
あれってもう三島事件の予告編みたいだから。
自分でやってもいいのかどうか、このスレってたぶん>>1さんの趣味が反映されてるから割り込みにくくて。

80 :無名草子さん:2010/03/31(水) 10:22:12
三島:いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。
だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは“正しい”という意味なんだから。(笑)

三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長 男の盟約」より

81 :無名草子さん:2010/03/31(水) 10:23:05
鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。
人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。

三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。

鶴田:昭和維新ですね、今は。

三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。

鶴田:三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。

三島:ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。

三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より

82 :無名草子さん:2010/03/31(水) 11:19:32
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会えば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。
なぜ多数を恃むのか。自分一人に自信がないからではないのか。
「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。その少数の一人一人が、
「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。
たつた一人孤立しても、切り抜けて行けなければならない。

三島由紀夫「拳と剣――この孤独なる自己との戦ひ」より

83 :無名草子さん:2010/04/01(木) 10:59:36
>>80-81
サンクス!乙です。


84 :無名草子さん:2010/04/01(木) 12:25:38
Q:…リトルロックの黒人学生の排斥問題があるんですが……

三島:あの問題は全然国内問題でね、僕は人種的偏見といふ問題については、外から言ふべきぢやないと
思ふんだね。そりやアメリカ人のみんなに会つてみなければわかりませんよ。そして自分の心の中から完全に
人種的偏見がとり去られなければ、どんな政治的な手や法律的な手を打つたつてだめなんで、時間の問題ですね。
日本人の中には黒人がゐないんだから、この問題を感覚的に理解することができない。人種的偏見つていふのは
心理的な問題であつて、外から、民主主義国にそぐはなくてけしからんといふべき問題ぢやない。つまり歴史と
伝統の問題だからね。

三島由紀夫「三島由紀夫渡米みやげ話」より

85 :無名草子さん:2010/04/02(金) 23:37:37
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたと
しても、その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、
証言出来ることであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ
可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な
行動の精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた
行為の有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識する
ものにとつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。

三島由紀夫「わが同志観」より

86 :無名草子さん:2010/04/04(日) 23:13:57
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに
描かれてゐる。男が手や爪の美容に気をつかふのは、スペインの貴族の習慣で、そこでは手の美しい男で
なければ、女にもてなかつた。
私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。

三島由紀夫「男のおしやれ」より

87 :無名草子さん:2010/04/04(日) 23:14:33
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、
華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。指環ひとつをとつてみても、節くれ
立つた、毛むくぢやらの指をしてゐてこそ、男の指環も引立つのだが、東洋人特有のスンナリした指の男が、

指環をはめてゐれば、いやらしいだけだ。
多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。これこそ、素朴であつて、
しかも華美を兼ねてゐる。学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服が
ピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。背広なんか犬に
喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。商人服をありがたがつて着てゐる情ない
世界的風潮よ。タキシードも犬に喰はれてしまへ。私はタキシードの似合ふ日本人といふものを、ただの一人も
見たことがないのである。

三島由紀夫「男のおしやれ」より

88 :無名草子さん:2010/04/05(月) 10:09:55
女性の特徴は、人の作つた夢に忠実に従ふことでせうが、何よりも多数決に弱いので、夫の意見よりも、つねに
世間の大多数の夢のはうを尊重し、しかもその「視聴率の高い夢」は大企業の作つた罠であることを、ほとんど
直視しようとしません。「だつて私の幸福は私の問題だもの」たしかにさうです。しかし、あなたの、その半分
ノイローゼ的な、幸福への夢へのたえざる飢ゑと渇きは、実は大企業が、赤の他人が作つてゐるものなのです。

三島由紀夫「反貞女大学」より

89 :無名草子さん:2010/04/05(月) 10:11:53
ちやうど年寄りの盆栽趣味のやうに、美といふものは洗練されるにつれて、一種の畸型を求めるやうになる。
…そして、さういふ奇妙な流行を作るのは、たいてい男の側からの要求であり、パリのデザイナーもほとんど
男ですし、ほかのことでは何でも男性に楯つくことの好きな女性が、流行についてだけは、素直に男の命令に
従ひます。

三島由紀夫「反貞女大学」より

90 :無名草子さん:2010/04/05(月) 10:15:23
批評する側の知的満足には、創造といふまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑が、いつまでもつきまとふ
ことは避けられない。この世には理想主義的知性などといふものはないのだ。
あらゆる理想主義には土方的なものがあり、あらゆる仕事は理想主義の影を伴ふ。そして批評的知性には、
本来土方の法被(はつぴ)は似つかはしくないものであるが、批評の仕事がひとたびこの法被を身にまとふと、
営々孜々として破壊作業に従事するか、それとも対象から遠く隔たつて天空高く楼を建てるかしてしまふのである。

三島由紀夫「裸体と衣装」より

91 :無名草子さん:2010/04/05(月) 10:22:45
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、
かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。
鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげてゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。
新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つてゐるやうに思はれる。
写真や映画は正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を混濁させる。
かうなつてくると、いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ目なら自分の目を
信ずる他はなくなるのだ。私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり精巧であらう。

三島由紀夫「同人雑記」より

92 :無名草子さん:2010/04/05(月) 10:24:54
今でも英国では、午後の紅茶に「ミルク、ファースト?ティー、ファースト?」と丁重にきいてまはつてゐる。
同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、味に変りはなささうだが、そんなことはどうでも
いいかといへば、そこには非合理な各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが英国であることは、
今も昔も変りがない。
「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは文化といふものを、あつさり放棄してしまつた
精神のやうに思はれる。

三島由紀夫「英国紀行」より

93 :無名草子さん:2010/04/05(月) 10:28:52
子供たちの目はまだ見ぬ世界への夢に輝いてゐる。この子供たちこそ世界を所有してゐるので、世界旅行は
世界を喪失することだ。尤も、生きるといふことがそもそも人生をなしくづしに喪失してゆくことなのであるから、
人間の行為と所有とは永遠に対立してゐる。

三島由紀夫「裸体と衣装」より

94 :無名草子さん:2010/04/05(月) 10:38:11
人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかばシャイネン(ふりを
する)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。ザイン(存在)だけのものになつたら、
シャイネンがほんたうに要らない人間になる。それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。
どんなに誠実さうな人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。
だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の
人間ぢやないのだから。芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。
芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐるといふのだらうが、
そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。

三島由紀夫「作家と結婚」より

95 :無名草子さん:2010/04/05(月) 10:43:32
私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。
洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、女の黒い髪は最も派手な、はなやかな色であるから、
かうして黒い服を着た黒い髪の女は、世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。

三島由紀夫「恋の殺し屋が選んだ服」より

96 :無名草子さん:2010/04/05(月) 16:54:46
思へば敗戦直後、私は日本に元禄時代の再来を夢みてをり、その夢には必ず谷崎文学の映像が二重写しになつて
ゐたが、いま、谷崎氏の死とともに、私の幻の元禄時代、つひに現実に訪れることのなかつた元禄時代も、
永久に消え去つたと感じられる。

三島由紀夫「谷崎潤一郎氏を悼む」より

97 :無名草子さん:2010/04/05(月) 16:56:16
氏の生涯は芸術家として模範的なものだといふ考へは私の頭を去らない。
日本の近代の芸術家中の一流中の一流の天才である氏は、日本の近代といふ歴史的状況のあらゆる矛盾を
「痴態」と見てゐたにちがひない。そしてそれによつて犠牲にされたあらゆるものを、氏はあの豊じゆんな、
あでやかな言葉によつて充分に補つた。かつてわれわれが「日本語」と呼んでゐた、あの無類に美しい、
無類に微妙な言語によつて。

三島由紀夫「谷崎文学の世界」より

98 :無名草子さん:2010/04/06(火) 12:27:11
谷崎氏は日本古典を愛しつつ、一方、小説家として少しも旧慣にとらはれない天才であつた。
この相反するかのごとく見える二つの特性は、日本の近代文学史の歪みの是正にもつとも役立つた。なぜなら
日本の近代小説は、日本古典の流れを汲まず、一方、自分たちのこしらへた奇妙な「近代的旧慣」のとりこに
なつてゐたからである。

三島由紀夫「谷崎潤一郎頌」より

99 :無名草子さん:2010/04/06(火) 12:29:47
谷崎氏のエロティックな領域の生活はともあれ、食生活の贅沢はいろいろと言ひ伝へられてゐる。
戦時中の食糧欠乏時代にも、美食に親しみながら「細雪」を書きつづけ、戦後は、熱海で客をもてなすのに
京都から料理人を呼び寄せたり、東京のパンはまづいからとて、京都からパンを飛行機で運ばせた、などといふ
噂を、嘘か本当か知らないが、きいたことがある。
しかし、史上伝へられるヴィクトル・ユゥゴオやデュマやプルウストの贅沢に比べれば物の数にも入らない。
住居も、青年時代の横浜の洋館の純洋風生活から、関西移住後の岡本の生活など、いろいろ話にはきいてゐるが、
王候を凌ぐ贅沢といふ風には感じられない。たまたま貧乏国の貧乏文士の間に置くから目立つただけで、
氏の豪奢な文学に比べれば、いかに氏が、生活に贅を尽くしても程度は知れてゐるのである。氏の場合は、
節倹第一の儒教的倫理感とも、社会主義者の世間を気にする貧乏演技とも、はじめから無縁だつただけの話である。

三島由紀夫「谷崎潤一郎、芸術と生活」より

100 :無名草子さん:2010/04/06(火) 12:31:39
では氏が、生活を享楽し、生を肯定し、生活第一と考へてゐたかと云へば、決してさうではあるまい。
このやうな美の執拗な構築者、美を現実に似せるために言葉の極限の機能を利用した芸術家にとつて、生活が
それほど根本的な関心であつたとは思はれない。
大体氏には、花なら桜、食物なら鯛、医者なら一流の国手といふ、大月並主義があつたのは事実だが、それが
私には、氏が自分の夢想にリアリティーを与へる手段であつたやうに思はれる。
氏の文学的夢想はきはめて困難なものであり、これを万人の趣味の理想で飾り立てることによつて、かつかつ
そのリアリティーが保障されるやうなものだつた。
氏が御馳走が好きであつたことは疑ひがないが、御馳走は、氏の文学自体がもつとも美味しい御馳走となる
ための手段だつたのだから、この芸術家の精神の中にある可食細胞にとつては、生活、人生、生自体はたえず
「美味しいもの」に見えてゐる絶対の必要があつたのである。

三島由紀夫「谷崎潤一郎、芸術と生活」より

101 :無名草子さん:2010/04/06(火) 12:56:48
日本人の明治以来の重要な文化的偏見と思はれるのは、男色に関する偏見である。
江戸時代までにはかういふ偏見はなかつた。西欧では、男色といふ文化体験に宗教が対立して、宗教が人為的に、
永きにわたつてこの偏見を作り上げたのである。しかるに日本では明治時代に輸入されたピューリタニズムの
影響によつて、簡単に、ただその偏見が偏見として伝播して、奇妙な社会常識になつてしまつた。そして
元禄時代のその種の文化体験を簡単に忘れてしまつた。
男色は、男色にとどまるものでなく、文化の原体験ともいふべきもので、あらゆる文化あらゆる芸術には、
男色的なものが本質的にひそんでゐるのである。
芸術におけるエローティッシュなものとは、男色的なものである。そして宗教と芸術・文化の、もつとも先鋭な
対立点がここにあるのに、それを忘れてしまつたのは、文化の衰弱を招来する重要な原因の一つであつた。

三島由紀夫「偏見について思ふこと」より

102 :無名草子さん:2010/04/06(火) 23:32:57
氏はうるさいことが大きらひで、青くさい田舎者の理論家などは寄せつけなかつた。自分を理解しない人間を
寄せつけないのは、芸術家として正しい態度である。芸術家は政治家ぢやないのだから。
私はさういふ生活のモラルを氏から教へられた感じがした。それなら氏が人当りのわるい傲岸な人かといふと、
内心は王者をも挫(ひし)ぐ気位を持つてゐたらうが、終生、下町風の腰の低さを持つてゐた人であつた。
初対面の人には、ずつと後輩でも、自分のはうから進み出て、「谷崎でございます」と深く頭を下げ、又、
自分中心のテレビ番組に人に出てもらふときには、相手がいかに後輩でも、自分から直接電話をかけて丁重に
たのんだ。秘書に電話をかけさせて出演を依頼するやうな失礼な真似は決してしなかつた。

三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より

103 :無名草子さん:2010/04/06(火) 23:35:25
深沢七郎氏の本の出版記念会が日劇ミュージック・ホールでひらかれたとき、私は谷崎氏の隣席でショウを
見てゐた。ショウがをはつて席を立つた私のあとから、谷崎氏が、「お忘れ物」と云ひながら、席に忘れた
私のレインコートを持つて来て下さつたのには恐縮した。ふつうの世界なら、「おい君、忘れてるよ」と、私の
肩でも叩いて注意してくれるのが関の山であらう。文士の世界では、どんなにヒヨッコでも一応、表向きは
一国一城の主として扱へ、といふ生活上のモラルも、私がかうして氏から教はつたものであつた。
そんなに深いお附合はなかつたが、私が氏から無言の裡に受けた教へは、このやうに数多い。それといふのも
氏は大芸術家であると共に大生活人であり、芸術家としての矜持を守るために、あらゆる腰の低さと、あらゆる
冷血の印象を怖れない人だつたからだ。

三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より

104 :無名草子さん:2010/04/08(木) 10:41:32
男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、この言葉には、
あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る何ともいへない閉鎖的な
エロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。
プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。

三島由紀夫「美しい女性はどこにいる」より

105 :無名草子さん:2010/04/09(金) 11:23:19
Q:先生の皇室観について

…僕は、天皇制といふものは、制度上の問題でもなく、皇居だけの問題でもない。日本人の奥底の血の中にある
もので、しかもみんな気付いてゐないものだと思ひます。だからどんな過激なことをいつてゐる人でも、その
心の奥をどんどん掘りかへしていくと、日本人の天皇との結びつき、つまり天皇制といふものの考へがひそんで
ゐると思ひます。我々は殆(ほと)んど無意識のうちに暮してゐますけど、心の奥底で、天皇制と国民は
連なつてゐるのだと思ひます。それを形に表はしたのが皇室なんです。
ですから皇室で一番大切なのはお祭りだと思ひます。
“お祭り”を皇室がずつと維持していただく、これが一番大切なことです。歴代の天皇が心をこめて守つて
来られた日本のお祭りを、将来にわたつて守つていただきたいと思ひます。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて――希望はうもん」より

106 :無名草子さん:2010/04/09(金) 11:23:57
Q:現代かなづかひについて

…僕は今の若い人は現代かなづかひでなければ小説など読まないと思つてゐたんですけど、かならずしも
さうではないやうです。
言葉をいぢるといふことは、言葉の魂をいぢることで、日本人の歴代を人為的にいぢるのと同じことです。
僕は大嫌ひですね。言葉を大切にしない民族は、三流ですよ。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて――希望はうもん」より

107 :無名草子さん:2010/04/10(土) 12:01:13
このごろ世間でよく言はれることは、「あれほど苦しんだことを忘れて、軍国主義の過去を美化する風潮が
危険である」といふ、判コで捺したやうな、したりげな非難である。
しかし人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に耐へることが
できるであらう。忘却と美化とは、いはば、相矛盾する関係にある。
完全に忘却したら、過去そのものがなくなり、記憶喪失症にかかることになるのだから、従つて過去の美化も
ないわけであり、過去の美化がありうることは、忘却が完全でないことにもなる。
人間は大体、辛いことは忘れ、楽しいことは思ひ出すやうにできてゐる。この点からは、忘却と美化は
相互補償関係にある。美化できるやうな要素だけをおぼえてゐるわけで、美化できない部分だけをしつかり
おぼえてゐることは反生理的である。人の耐へうるところではない。

三島由紀夫「忘却と美化」より

108 :無名草子さん:2010/04/10(土) 12:02:11
私は、この非難に答へるのに、二つの答を用意してゐる。
一つは、忘れるどころか、「忘れねばこそ思ひ出さず候」で、人は二十年間、自分なりの戦争体験の中にある
栄光と美の要素を、人に言はずに守りつづけてきたのが、今やつと発言の機会を得たのに、邪魔をするな、
といふ答である。
この答の裏には、いひしれぬ永い悲しみが秘し隠されてゐるが、この答の表は、むやみとラディカルである。
従つて、この答を敢てせぬ人のためには、第二の答がある。
すなはち、現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐるのであつて、
その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も増大してきたのであつて、
それこそ未来への批評的建設なのである、と。

三島由紀夫「忘却と美化」より

109 :無名草子さん:2010/04/11(日) 23:37:33
ウワーッと両手で顔をおほつて、その指のあひだから、こはごはながめて「イヤだア」とかなんとか言つてゐる
手合ひを野次馬といふ。
私に対する否定的意見は、すべてこの種の野次馬の意見で、私はともあれ、交通事故なのだ。

三島由紀夫「感想 広域重要人物きき込み捜査『エッ!三島由紀夫??』」より

110 :無名草子さん:2010/04/12(月) 10:43:06
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。(中略)
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。
世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。

三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より

111 :無名草子さん:2010/04/12(月) 10:57:07
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。
今は人殺しの風儀も地に落ちたが、昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。
人とエヘラエヘラ附合ふことだけにエチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、
思へば不安な時代である。

三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より

112 :無名草子さん:2010/04/12(月) 10:59:10
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。
たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。
われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。他人に通じない
話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。

三島由紀夫「内輪のたのしみ」より

113 :無名草子さん:2010/04/12(月) 15:36:09
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。
当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、
「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、
親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略)
マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。

三島由紀夫「社会料理三島亭」より

114 :無名草子さん:2010/04/13(火) 12:38:15
さしも世界に名高い日本の柔道も紅毛碧眼に名を成さしめる仕儀に相成つたが、剣道はまだまだ勝味がござる。
小生、先ごろ桑港(サンフランシスコ)に赴き、書肆(しよし)の一画に「柔道」と名付くる棚があつて、
数十冊の柔道書を並べたる一驚を喫したが、生憎剣道のはうは一冊もござらなんだ。もつとも加州大学には、
剣道四段の碧眼の偉丈夫あり、勝負を挑まれたが、いささか日本国の名誉を思うて、風邪にことよせ、試合は
御辞退申した。かかる例外あれど、概して泰西諸国においては、剣道の普及未だしの観あり、剣道はもつぱら
「羅生門」の名優三船敏郎氏の風車剣法によつてのみ名あり。
剣をたしなむときけば、泰西人はいささか畏怖の情をあらはし、時代錯誤的恐怖にからるるやと思(おぼし)く、
ここがつけ目と愚考いたしてござる。武士道は、禅と等しく、ますます神秘化されてこそ世界に活路もあれ、
ゆめゆめスポーツ化させることなかれ、といふが、小生の切なる忠言でござる。

三島由紀夫「剣、春風を切る――ただいま修業中」より

115 :無名草子さん:2010/04/14(水) 10:17:34
すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、たくさんの船虫に
蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、風雅な住ひを飾るのだ。

三島由紀夫「俳優といふ素材」より

116 :無名草子さん:2010/04/14(水) 10:18:40
俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、観客席のはうへ顔を向けて
ゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。

三島由紀夫「俳優といふ素材」より

117 :無名草子さん:2010/04/14(水) 10:22:23
生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、幸福感を感じるときには、
もう衰退の中にゐるのだ。(中略)
春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして青春は思ひ出の中でのみ
美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春が
こんなに人をいらいらさせるのは、この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。
あの春先のまつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるやうに、
顔をそむけずにはゐられないのである。

三島由紀夫「春先の突風」より

118 :無名草子さん:2010/04/14(水) 10:43:31
今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、ある場合には、
社会不安のたねにさへなる。
こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、平べつたい人間認識では、とても片付かない。

三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より

119 :無名草子さん:2010/04/14(水) 10:49:57
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、散歩でも、現在自分の
やつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。(略)プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の
判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、
「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より

120 :無名草子さん:2010/04/14(水) 11:33:35
世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」
「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、
知つておいて損はなからう。
男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものはありえない。
「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より

121 :無名草子さん:2010/04/14(水) 12:38:43
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力が
ある。みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど
血湧き肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい
椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(略)
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。

三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より

122 :無名草子さん:2010/04/14(水) 12:40:21
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、
どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの
赤ん坊の可愛らしいこと!…(略)』さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。(略)かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に
見せるものではない、といふことである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より

123 :無名草子さん:2010/04/14(水) 12:43:51
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、
赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る
おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に
陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。
冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。
「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

124 :無名草子さん:2010/04/14(水) 12:45:57
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に
見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが
できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと
思はれる。一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?それなら、人に弱気や
羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する
人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良な
やさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

125 :無名草子さん:2010/04/14(水) 12:47:07
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ
脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を
素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを
歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを
した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へ
コッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けよう
といふ気で金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでも
あるのに、社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。(略)

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

126 :無名草子さん:2010/04/14(水) 12:48:16
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い
羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと
獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふ
ものである。(中略)
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を
ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(略)
助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを
対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

127 :無名草子さん:2010/04/15(木) 17:23:28
現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、私は決して咎めないが、
現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を
発見するやうな人たちのはうを、私はもつともつと愛する。
古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふのである。なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、
現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、その恐怖の造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、
おそらくチャンスのちがひでしかない。

三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より

128 :無名草子さん:2010/04/15(木) 17:26:34
一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。
それにしても、或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命になつてしまふといふのは、
薄気味のわるいことである。広島の原爆もまた、かうして一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の
宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマをいつも演じてゐる。
今まで数千年つづいて来たやうに、(略)人間のこのドラマがつづくことだけは確実であらう。
ただわれわれ一人一人は、宿命をおそれるあまり自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて
歩きだせはよいに決つてゐる。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)」より

129 :無名草子さん:2010/04/16(金) 11:07:06
現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。

三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム――撮られた立場より」より

130 :無名草子さん:2010/04/16(金) 11:30:12
歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、血の比喩として
使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが明白な肉感的世界の象徴であり、
なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに
観念を交換し、互みに呼び合ふものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、
やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の復活がふんだんに
見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続をとつてしか現はれない時代に生きてゐる。

三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より

131 :無名草子さん:2010/04/16(金) 11:39:15
作家は作品を書く前に、主題をはつきりとは知つてゐない。「今度の作品の主題は何ですか」と作家に訊くのは、
検事に向かつて「今度の犯罪の証拠は何ですか」と訊くやうなものである。
作中人物はなほ被疑者にとどまるのである。もちろん私はストーリイやプロットについて言つてゐるのではない。
はじめから主題が作家にわかつてゐる小説は、推理小説であつて、私が推理小説に何ら興味を抱かないのは
この理由による。外見に反して、推理小説は、刑事訴訟法的方法論からもつとも遠いジャンルの小説であり、
要するに拵(こしら)へ物である。

三島由紀夫「法律と文学」

132 :無名草子さん:2010/04/16(金) 11:44:39
コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。踏台を蹴飛ばせば
万事をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやればおしまひだ。……作家が書きつづけるのは、
生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を
生かしてゐるのだが、これはもともと自殺用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで
彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。踏台が果してゐるのは
いかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさないといふことは、半ばは彼の自由意志にかかはる
ことであるが、自殺の目的に照らせば、明らかに彼の意志に反したことである。

三島由紀夫「武田泰淳氏――僧侶であること」より

133 :無名草子さん:2010/04/16(金) 11:50:20
伝播の速い世の中では、今日の独断も、明日の通念になる。あなたがロマンチストと言つて下さつた以上、
明日から私はロマンチストでとほりさうです。いづれにせよ、人がかぶれといふ帽子を、私は喜んでかぶる
つもりです。たとへそれが、あのルイ王がかぶらされたといふ三角帽子であつても。
ただ私の何とも度しがたい欠陥は、自分に関する最高の通念も、最低の通念も、同じやうに面白がること
なのです。これはほとんど私の病気です。おしまひにはいつもかう言ひたくなる。
「何を言つてやがる。俺は実は俺ぢやないんだぞ」これが私の自負の根元であり、創作活動の根源です。そして
これが、あらゆる通念を喜んで受け入れる私の態度の原因なのです。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より

134 :無名草子さん:2010/04/16(金) 11:52:23
私は不断の遁走曲であり、しかも、いつも逃げ遅れてゐる者です。子供のころ、学校で集団でイタヅラをすると、
いつも逃げ遅れるのが、私ともう一人Kといふ生徒でした。そこで私とKはつかまつて、先生から、鉢合せの罰を
うけるのでした。こんな痛い刑罰はない。しかしKのオデコにはコブができないのに、私のオデコにだけは
コブができた。これが爾後、私の宿命となつたやうに思はれます。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より

135 :無名草子さん:2010/04/16(金) 11:55:44
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に屈服するとは限らぬと
同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。

三島由紀夫「残酷美について」より

136 :無名草子さん:2010/04/16(金) 12:00:40
われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。
民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亘つて
つづけて来たので、歴史の変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、重みをかけることでバランスを保つてきた。
戦争中のやうに多すぎる血潮や死の時代には、人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の
生理的恐怖を消化した。今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を
与へがちになるのは、当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで解決する問題ではない。

三島由紀夫「残酷美について」より

137 :無名草子さん:2010/04/16(金) 12:06:46
遠い花火があのやうに美しいのは、遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が空中に花咲き、
音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。
光りは言葉であり、音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、
もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂをわれわれの心に定着しつつ、別の独立な使命を
帯びて、われわれの耳に届くのである。

三島由紀夫「芸術断想 詩情を感じた『蜜の味』」より

138 :無名草子さん:2010/04/16(金) 12:17:26
芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。四方八方から
可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
諸君を北風の中へ引張り出して鍛へてやらうと思つたのに、ふたたび温室の中へはひ込むのなら、私は残念ながら
諸君とタモトを分つ他はないのである。

三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より

139 :無名草子さん:2010/04/17(土) 12:34:29
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つておけば腐つてしまふ。
伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が
行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方をよくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの
間には決定的な差があるが、木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次の
オリジナルになるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。かくて
伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の秋は今年の秋とおなじである。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より

140 :無名草子さん:2010/04/17(土) 12:36:20
現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の実相は、時たま起る
酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。
宗教にいたつては、息もたえだえである。……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに
消えてしまふ。(略)
現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知のとほりである。
それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりを
ふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ
具合に、三者の代理の贋物が、対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、
この贋物の三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに
なつたのである。

三島由紀夫「変質した優雅」より

141 :無名草子さん:2010/04/17(土) 12:37:31
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、このやうな
光彩陸離たる芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、日本の誇るべき特色である。
だんだん矮小化されてきた日本文化の数百年のあひだに、それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の
宮廷は保つてきたのである。

三島由紀夫「舞楽礼讃」より

142 :無名草子さん:2010/04/19(月) 11:27:07
一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、
かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと
クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうな
ハイカラな風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、
日本人が外国人なみ(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな
国民なら、とつくの昔に一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する
抵抗精神はなかなかのもので、占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、
今以てキリスト教徒は人口の二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義の
ありつたけをつくした酒池肉林の無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

143 :無名草子さん:2010/04/19(月) 11:27:45
私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと
思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて
しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領
されるおそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。
こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の
舌足らずの祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうに
なつたのはもつともである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

144 :無名草子さん:2010/04/19(月) 11:28:23
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、
どれほどクリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、
「ソーラン節」や「おてもやん」程度には普及してきたのである。(中略)
一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、
デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの
つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて
よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ
行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。
クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

145 :無名草子さん:2010/04/19(月) 11:29:21
…クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の
馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい
起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元してしまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。
しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に
忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。
ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の
祭のミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふ
ハイカラなお祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。
日本にゐて外国の祭にウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と
喜ぶのが何だか気恥かしいのである。(略)

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

146 :無名草子さん:2010/04/19(月) 11:29:59
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、
クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。
そこのところが、どうしても私にはわからない。
多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードを
かついでゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。
クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の
祭には、たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと
苦しいものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、
形のある重いオミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる
「苦シマス」が、日本的クリスマスの本質なのかもしれない。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

147 :無名草子さん:2010/04/21(水) 10:48:17
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略)
又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。と、それに
まじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、ラヂオをかけながらの酒宴といふのも
へんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついた
やうな騒ぎになつてしまつた。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

148 :無名草子さん:2010/04/21(水) 10:48:42
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。しばらく音がしないで、
寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に
眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

149 :無名草子さん:2010/04/21(水) 10:49:08
(中略)――かうして一日たち二日たつた。
最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。二日目にはもう隣室の
話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。三日目になると完全にコツを
おぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、食事がおそい
ときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる
人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきもので
あつた。都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

150 :無名草子さん:2010/04/21(水) 10:49:38
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを
真似なくてもいい。西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない
孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつた
はうが賢明なのかもしれない。(略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが
そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を
発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

151 :無名草子さん:2010/04/22(木) 11:42:40
私は経験上、少年期といふものがどんなものであるかを多少知つてゐる。
少年といふものは独楽なのだ。廻りだしてもなかなか重心が定まらない。傾いたままどこへころがつてゆくか
わからない。何しろ一本足で立つてゐるのだから、不安定は自分でもよく知つてゐる。
大人たちとちがふところは、とにかく廻つてゐるといふことである。廻ることによつて漸く立上れるといふことである。
廻らない独楽は死んだ独楽だ。ぶざまに寝てゐるのがいやなら、どうしても廻らなければならない。

三島由紀夫「独楽」より

152 :無名草子さん:2010/04/22(木) 11:43:43
しかし独楽は、巧く行けば、澄む。独楽が澄んだときほど、物事が怖ろしい正確さに達するときはない。
いづれ又惰力を失つて傾いて転んで、廻転をやめることはわかつてゐるが、澄んでゐるあひだの独楽には、
何か不気味な能力が具はつてゐる。
それはほとんど全能でありながら、自分の姿を完全に隠してしまつて見せないのである。それはもはや独楽ではなくて、
何か透明な兇器に似たものになつてゐる。しかも独楽自身はそれに気づかずに、軽やかに歌つてゐるのである。
私の少年期にも、さういふ瞬間があつたかもしれない。しかし記憶にはとどまらない。記憶にとどめてゐるのは、
それを見てしまつた大人のはうである。
自分の姿が澄んで消えてしまつたことに、そのとき独楽が気づいてゐないことも確実なら、その瞬間、何かが
自分と入れかはつたことに気がつかないのも確実である。

三島由紀夫「独楽」より

153 :無名草子さん:2010/04/23(金) 11:25:33
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥のやうなきしみを立てる列車が、われわれが眠つて
ゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や峡谷や
海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふのでなければ
ならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに美しく
パセティックなものはない。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

154 :無名草子さん:2010/04/23(金) 11:26:06
空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の
冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう
悲劇的な美を帯びる。
かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する
郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが
夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。(中略)
機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、
又われわれの郷愁をそそるのである。頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところの
なかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々と
シルクハットさへ冠つてゐた。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

155 :無名草子さん:2010/04/23(金) 11:26:32
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、
近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、
未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた
時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。
しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて
今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。
それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。そしてそこに、私は時代に取り残された無智な
しかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

156 :無名草子さん:2010/04/23(金) 11:26:59
それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が
よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた
人なら、誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、
さめる日が来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の
帰結であるが、そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。
だからわれわれは蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

157 :無名草子さん:2010/04/24(土) 12:05:26
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。

三島由紀夫「踊り」より

158 :無名草子さん:2010/04/24(土) 12:05:47
踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて
失つてしまつたものではないかと思はせるとき、その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在の
ありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののため
なのである。自由意思が、われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。

三島由紀夫「踊り」より

159 :無名草子さん:2010/04/24(土) 12:06:10
のみならず、何らかの制約のないところでは、無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の
宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識でみたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、
無意識の力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、
純粋な生命のよろこびを妨げてゐる。

三島由紀夫「踊り」より

160 :無名草子さん:2010/04/24(土) 12:06:31
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の
肉体に音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すもの
だといへるだらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる
別様の法則と秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。

三島由紀夫「踊り」より

161 :無名草子さん:2010/04/24(土) 12:06:55
…ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、新春の
よろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。
新しい年の抱負などと考へだした途端に、われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影で
みたしてしまふ。未来のことなどは考へずに踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、
踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りはたちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久に
よろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。

三島由紀夫「踊り」より

162 :無名草子さん:2010/04/26(月) 11:10:48
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。

平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より

163 :無名草子さん:2010/04/26(月) 11:11:18
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。

平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より

164 :無名草子さん:2010/04/27(火) 11:04:34
○偉大な伝統的国家には二つの道しかない。異常な軟弱か異常な尚武か。
それ自身健康無礙(むげ)なる状態は存しない。伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。

○承詔必謹とは深刻なる反省の命令である。戦争熱旺(さか)んなりし国民が一朝にして
平和熱へと転換する為に、自己革命からの身軽な逃避が、この神聖な言葉で言訳されてはならない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より

165 :無名草子さん:2010/04/27(火) 11:05:05
○デモクラシイの一語に心盲ひて、政治家達ははや民衆への阿諛(あゆ)と迎合とに急がしい。
併し真の戦争責任は民衆とその愚昧とにある。源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の
群衆に存立の礎をもつやうに、我々の時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負ふ。
啓蒙以前が文学の故郷である。これら民衆の啓蒙は日本から偉大な古典的文学の創造力を
奪ふにのみ役立つであらう。――しかしさういふことはありえない。私は安心してゐる。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆をおそれてゐる。
この畏怖に我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より

166 :無名草子さん:2010/04/27(火) 11:05:32
○日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。

○ナチスもデモクラシイも国の伝統的感情の一斑と調和するところあるために取入れられ
又取入れられ得たのであると思ふ。これを超えて、強制的に妥当せしめらるゝ時、
ナチスが禍(わざはひ)ありし如く、デモクラシイも禍あるものとなるであらうと思ふ。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より

167 :無名草子さん:2010/04/27(火) 11:06:05
○偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。

○芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。
しかしその融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして
再び蝋として凝化し固形化する。これが詩人の作品である。
即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは
地上的なる形態を超えて存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。

○人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より

168 :無名草子さん:2010/04/27(火) 11:08:43
○退屈至極であつた学習院の学友諸君よ。
諸君らに熱情ある友情の共感をもちつゞけることができるほど、僕は健康な人間ではなかつた。
君らがジャズを愛好するのもまだしも我慢できた。君らが一寸も本を読むといふことを
しらないで、殆ど気高くみえるほど無智なことにも我慢できた。
だが僕には我慢ならなかつた。君らと会ふたびに、暗黙の内に強いられたあの馬鹿話の義務を。
つまり君たちが、おそろしく、さうだ慶応年間生れの老人よりも、もつとおそろしく
退屈であつたことを。――戦争が僕と君らを離れるやうに強いた。今では、昔より、僕は
君らを愛することができるだらう。尤も君らが僕の目の前にゐないことを前提としてだ。
――なつかしい「描かれる」一族よ。君たちは君たちの怠惰と、無智と、無批判の故に、
描かれるべく相応に美しくなつてゐる筈だ。僕には「桜の園」の作者となる義務があるだらう。
(君らがゑがかれるために申分なく美しくなつた時代に)

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より

169 :無名草子さん:2010/04/27(火) 11:09:14
○流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。
わたしはかゞやく変様の一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして
永遠にわたしに寄添うてあれ。

○神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは注目すべき事実だ。

○どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。
それを書いた瞬間に、すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や
荷車や鈴や軋(きし)りやあらゆる騒音が活々とゆすぶれだし、約束のやうに辷(すべ)り出す、
さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや恵まれずとも怨まない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より

170 :無名草子さん:2010/04/28(水) 12:11:57
あのヨーグルトを固めたやうな男が、男性の性的魅力の代表であるといふことについては、異論のある人が
多いと思ふ。(中略)
年増女の母性愛をくすぐる憂愁も、あどけなさも、少女の英雄崇拝にうつたへる体力も、不良つぽさも、
性的経験のある女に対する魅力も、それのない女からの憧れも……何もかも一身に具備して、歌の一ふし、
体の一ひねり、ことごとくセクシーならざるはないといふこの男。しかもそれを男の中の男と呼ぶには、
何か欠けてゐるやうな男。なまぐさい若さの、動物電気みたいなものを、存在すべてにしみこませて、それで
成功した男……。(略)
しかし、男といふものは、別にそんな存在になるために生まれてくるわけぢやない。プレースリーは、男性に
おける突然変異であり、ひどく自然に反したもので、一種の「性の神」になるやうに生まれついた男である。
ひよつとすると、彼がアメリカ人であるといふことは、女性の権力が強くなりすぎた社会における、男性の
側からの永い怨みと復讐のしるしかもしれない。

三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より

171 :無名草子さん:2010/04/28(水) 12:16:34
「ああ、女たちよ。威張れ。威張れ。いくらでも威張れ。お前たちのおのぞみの歌、大好きな歌をうたつて
やるからな。ほら、俺が歌ふと、どうしたんだい?今まで威張つてたお前たちが、急にしびれて、引つくり
かへるぢやないか。男の暴力を封じ、経済力をむしばみ、権力を弱めてきたお前たちが、
ハ、ハ、ハ、ハートブレーク・ホテル
だなんて、俺が下らない歌を、ふるへ声で歌ふと、とたんに降参して城を明け渡すぢやないか。なんて君らは
低俗な趣味なんだ。どうだい、腰を振つてやらうか。うれしいか。ざまあみろ。俺の前ぢや、みんな仮面を
はがれてしまふんだ。いくらとりすました顔をして、威張つてゐたつて、こんな下品な歌一つで一コロなんだ。
どうだ。男にはやつぱりかなはないといふことがわかつたろう。(略)」
――プレースリーの歌をきいてゐると、私は砂糖菓子みたいな歌詞のむかふがはで、彼がたえず右のやうに
歌つてゐる声をきくやうな気がします。

三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より

172 :無名草子さん:2010/04/30(金) 11:46:00
息子が大きくなれば全学連にならぬかとおそれをののき、娘が大きくなれば悪い虫が
つきはせぬかとひやひやする、親の心配苦労をよそに、息子ども娘ども、
「お前の高校は処女が一割だつていふぜ」
「アラ、わりかしいい線行つてるわね」
などとほざき、オートバイのマフラーをはづして、市民の眠りをおどろかし、雨の日には転倒して
頭の鉢を割り、あわてた親が四輪車を買つてやれば、たちまち岸壁から海へどんぶり。
山へ出かけては凍え死に、スキーへ出かけては足を折る。身体髪膚、父母からもらつたものは
一つもないかの如くである。

三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より

173 :無名草子さん:2010/04/30(金) 11:46:24
蔭では親のことを「あいつ」と呼び、働きのない親は出てゆけがしに扱はれ、働きのある親とは
金だけのつながり。いつも親に土産を買つてかへる今どきめづらしい孝行者と思へば、
万引きの常習犯で、親が警察へ呼び出されて、はじめてそれと知つてびつくり。
これなどは罪の軽い方で、いつ息子に殺されるかと、枕を高くして寝られない親もあり、
こどもの持つてゐる凶器は、鉛筆削りのナイフといへども、こつそり刃引きをして
おいたはうが無難である。

三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より

174 :無名草子さん:2010/04/30(金) 11:46:46
日曜日も本に読みふける子は、あつといふ間にノイローゼになり、本を読まぬ子はテレビめくら。
親父の代には不良は不良でも、硬派の不良となると世間も認めたが、今は硬軟とりまぜの時代で、
親の目には一向見当もつかず、軟派とおもへばデモ隊で声を嗄らし、硬派とおもへば
いつのまにやらプレイボーイとかになり下がり、娘が「オレ」と言ひ、息子は
「あのう……ぼく」と言ふ世の中。

三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より

175 :無名草子さん:2010/05/10(月) 17:40:47
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。
僕らの肯定は諦観ではない。僕らの肯定には残酷さがある。
――僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当である筈だ。
なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。
一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。僕らは止められてゐる。
僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。
時空の凡ゆる制約が、僕らの目には可能性の仮装としかみえない。
僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――そこに僕らは
たえず僕らを無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。
決定されてゐるが故に僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は
永遠である。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

176 :無名草子さん:2010/05/10(月) 17:41:18
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。
発見は「既存」の革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の
現象的相対的変化に他ならない。既存の革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

177 :無名草子さん:2010/05/11(火) 00:02:49
叙事詩人とは何者でせう。一体そんな人はゐたのでせうか。僕はこの時代にもどこかに生き永らへてゐるやうに
信じられる一人の象徴的人物のことを考へてゐるのでせう。
その人の目にはあらゆる貴顕も英雄も庶民も、「生存した」といふ旺(さか)んな夢想に於て同一視されます。
その人の目には愛情の遠近法が無視される如く見えながら、実は時代の経過につれてはじめて発見されるやうな
霊妙な透視図法を心得てゐます。その人の魂の深部では、信じ合へずに終つた多くの魂が信じ合ふことを
知るやうになります。その人は変様であつて不変であり、無常であつて常住であります。

三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

178 :無名草子さん:2010/05/11(火) 00:03:14
その人こそは亡ぼさうと意志する「時」の友であり、遺さうと希ふ人類の味方です。
不死なるものと死すべきものとの渚に立ち、片方の耳はあの意慾の嵐の音をきき、片方の耳はあの運命の潮騒に
向つてそばだてられてゐます。その人は言葉の体現者であるとも言へませう。言葉はその人に在つては、
附せられた素材性を払ひ落し、事実を補へるのではなしに事実のなかに生き、言葉そのものがわれわれの
秘められた願望とありうべき雑多な反応とを内に含んで生起します。我々が手段として言葉を使役するのではなく、
言葉が我々を手段化するのです。――かくて叙事詩人は非情な目の持主です。
安易な物言ひが恕(ゆる)されるなら、人間への絶望から生れた悲劇的なヒュマニティの持主だと申しませうか。

三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

179 :無名草子さん:2010/05/11(火) 00:03:33
(中略)
思ひかへせばかへすほど、愚かな戦争でした。僕には日本人の限界があまりありありとみえて怖ろしかつたのでした。
もうこれ以上見せないでくれ、僕は曲馬団の気弱な見物人のやうに幾度かさう叫ばうとしました。
戦争中には歴史が謳歌されました。しかし彼らはおしまひまで、ニイチェの「歴史の利害について」の歴史観とは
縁なき衆生だつたとしか思へません。
戦争中には伝統が讃美されました。しかしそれは、嘗てロダンが若き芸術家たちに遺した素朴な言葉を理解する
ことができるほど謙虚なものであつたでせうか。

三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

180 :無名草子さん:2010/05/11(火) 00:03:52
ロダンは極めてわかりやすく慈父のやうに説いて居ります。
「(略)伝統を尊敬しながら、伝統が永遠に豊かに含むところのものを識別する事を知れ。それは『自然』と
『誠実』との愛です。此は天才の二つの強い情熱です。皆自然を崇拝しましたし又決して偽らなかつた。
かくして伝統は君達にきまりきつた途から脱け出る力になる鍵を与へるのです。伝統そのものこそ君達にたえず
『現実』を窺ふ事をすすめて或る大家に盲目的に君等が服従する事を防ぐのです」――この大家といふ言葉は、
古典と置きかへてみてもよいかもしれません。
戦争中にはまた、せつかちに神風が冀(ねが)はれました。神を信じてゐた心算(つもり)だつたが、実は
可能性を信じてゐたにすぎなかつたわけです。可能性崇拝といふ低次な宗教に溺れてゐたのです。

三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より

181 :無名草子さん:2010/05/12(水) 11:25:50
しかし、何といつても、ボクシングはあの場内の興奮に包まれて、ぢかに見るべきものだ。
テレビだと、十五ラウンドが、スカスカと機械的に運ばれる感じで、興味は半減する。…
解説のアナウンサーの声が全くいやらしい。ボクシングの試合なのだから、もうちよつと
粗野な、ボクサー風に鼻のつまつたカスレ声のアナウンサーを連れて来るわけには行かないのか。
そのはうがずつと気分が出るぢやないか。
いやに澄んだ高い声の、中性的なアナウンサーの乙リキにすました軽薄な「客観性」、
これこそ、ジャーナリズムのいはゆる「良心的客観性」の空虚ないやらしさを象徴してゐる。

三島由紀夫「日録(昭和42年)」より

182 :無名草子さん:2010/05/13(木) 01:01:19
>>1
ともだちんこ

183 :無名草子さん:2010/05/13(木) 10:59:57
私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生といふ考へがきらひである。蠅のゐないところで、おいしい料理が
生まれるわけがない。アメリカ文化を貧しくさせたものは、清教徒主義と婦人団体であつて、日本精神は
もつともつと性に関して寛容なのである。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に
発展してきたものである。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

184 :無名草子さん:2010/05/13(木) 11:02:15
(中略)
いくら「黒い雪」が穢らしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸術の一種として、芸術のよいところは、
そこに呈示されてゐるものがすべてだといふことだ。芸術は、よかれあしかれ、露骨な顔をさらけ出してゐる。
それをつかまへて「お前は露骨だ」といふのはいけない。要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを
判断することは遠慮すべきであるやうに、やはり芸術を判断するには遠慮がちであるべきである、といふのが
私の考へである。それが良識といふものであり、今度の判決はその良識を守つた。
この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするやうな美しさしか認めることのできない女性的暴力によつて、
いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであらう。われわれは、二度と西鶴や南北を生むことができなくなるであらう。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

185 :無名草子さん:2010/05/13(木) 11:04:20
女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は微妙に侮蔑と
結びついてゐる。(谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものはないのである。
氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。しかし氏にとつての関心は、婦人解放の結果、発達し、
いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。
エロスの言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

186 :無名草子さん:2010/05/16(日) 00:43:57
最初の特攻隊が比島に向つて出撃した。我々は近代的悲壮趣味の氾濫を巷に見、あるひは楽天的な神話引用の
讃美を街頭に聞いた。我々が逸早く直覚し祈つたものは何であつたか。我々には彼等の勲功を讃美する代りに、
彼等と共に祈願する術しか知らなかつた。彼等を対象とする代りに、彼等の傍に立たうとのみ努めた。
真の同時代人たるものゝ、それは権利であると思はれた。
特攻隊は一回にしては済まなかつた。それは二次、三次とくりかへされた。この時インテリゲンツの胸にのみ
真率な囁(ささや)きがあつたのを我々は知つてゐる。「一度ならよい。二度三度とつゞいては耐へられない。
もう止めてくれ」と。我々が久しくその乳臭から脱却すべく努力を続けて来た古風な幼拙なヒューマニズムが
こゝへ来て擡頭したのは何故であらうか。我々はこれを重要な瞬間と考へる。人間の本能的な好悪の感情に、
ヒューマニズムがある尤もらしい口実を与へるものにすぎないなら、それは倫理学の末裔と等しく、
無意味にして有害でさへあるであらう。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

187 :無名草子さん:2010/05/16(日) 00:44:30
しかし一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない。
誤解してはならない。国家の最高目的に対する客観的批判ではなく、その最高目的と人間性の発動に矛盾を
生ずる時、既に道義はなく、道徳は失はれることを云はんとするのである。人間性の発動は、戦争努力と同じ
強さを以て執拗に維持され、その外見上の「弱さ」を脱却せねばならない。この良き意思を欠く国民の前には
報いが落ちるであらう。即ち耐ふべきものを敢て耐ふることを止め、それと妥協し狎(な)れその深き義務より
卑怯に遁(のが)れんとする者には報いが到来するであらう。
我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に
対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から
目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を
声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒涜の語を放ち出した。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

188 :無名草子さん:2010/05/16(日) 00:45:14
彼等は戦術と称して神の座と称号を奪つた。彼等は特攻隊の精神をジャアナリズムによつて様式化して安堵し、
その効能を疑ひ、恰(あた)かも将棋の駒を動かすやうに特攻隊数千を動かす処の新戦術を、いとも明朗に
謳歌したのである。沖縄死守を失敗に終らしめたのはこの種の道義的弛緩、人間性の義務の不履行であつた。
我々は自らに憤り、又世人に憤つたのである。しかしこの唯一無二の機会をすら真の根本的反省にまで
持ち来らすに至らなかつた。
軈(やが)て本土決戦が云々され、はじめて特攻隊は日常化されんとした。凡ての失望をありあまるほど
もちながら、自己への失望のみをもたない人々が、かゝる哀切な問題に直面したことには一片の皮肉がある。
我々は現在現存の刹那々々に我々をして態度決定せしめる生と死の問題に対して尚目覚むるところがなかつた。
もし我々に死が訪れたならそれは無生物の死であつたであらう。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

189 :無名草子さん:2010/05/16(日) 00:45:46
(中略)
沖縄の失陥によつて、その後の末世の極限を思はしむる大空襲のさなかで、我々がはじめて身近く考へ
目賭(もくと)したのは「神国」の二字であつた。我々には神国といふ空前絶後の一理念が明確に把握され
つゝあるが如く直感されたのである。危機の意識がたゞその意識のみを意味するものなら、それは何者をも
招来せぬであらう。たゞ幸ひにも、人間の意識とは、その輪廓以外にあるものを朧ろげに知ることをも包含する
のである。意識内容はむしろネガティヴであり、意識なる作用そのものがポジティヴであると説明して
よからうと思はれる。それは又、人間性の本質的な霊的な叡智――神である。(中略)
我々が切なる祈願の裏に「神国」を意識しつゝあつた頃、戦争終結の交渉は進められてあり、人類史上その
惨禍たとふるものなき原子爆弾は広島市に投弾されソヴィエト政府は戦を宣するに至つた。かくて八月十五日
正午、異例なるかな、聖上御親(おんみづか)ら玉音をラヂオに響かし給うたのである。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

190 :無名草子さん:2010/05/16(日) 00:46:19
「五内(ごだい)為に裂く」と仰せられ、「爾(なんぢ)臣民と共に在り」と仰せらるゝ。我々は再び我々の
帰るべき唯一無二の道が拓(ひら)くるを見、我々が懐郷の歌を心の底より歌ひ上ぐるべき礎が成るのを見た。
我々はこの敗戦に対して、人間的な悲喜哀歓喜怒哀楽を超えたる感情を以てしか形容しえざるものを感ずる。
この至尊の玉音にこたへるべく、人間の絞り出す哭泣の声のいかに貧しくも小さいことか。人間の悲しみが
いかに同じ範疇を戸惑ひしてうろつくにすぎぬことか。我々はすでにヒューマニズムの不可欠の力を見たが、
これによつて超越せられたる一切の価値判断は、至尊の玉音に於て綜合せられ、その帰趨(きすう)を
得るであらうと信ずる。人間性の練磨に努めざりし者が、超人間性の愛の前に、その罪を謝することさへ
忘れ果てて泣くのである。この刹那我等はかへりみて自己が神であるのを知つたであらう。人間性はその限界の
極小に於て最高最大たりうることを。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

191 :無名草子さん:2010/05/16(日) 00:47:57
(中略)
けふ八月十九日の報道によれば、参内されたる東久邇宮に陛下は左の如く御下命あつた由承る。
「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも
即刻撤廃せよ」
かくの如きは未だ嘗て大御心(おほみこころ)より出でさせたまひし御命令としてその例を見ざる処である。
この刹那、わが国体は本然の相にかへり、懐かしき賀歌の時代、延喜帝醍醐帝の御代の如き君臣相和す
天皇御親政の世に還つたと拝察せられる。黎明(れいめい)はこゝにその最初の一閃を放つたのである。(中略)
青年の奮起、沈着、その高貴並びなき精神の保持への要請が今より急なる時はない。
ますらをぶりは一旦内心に沈潜浄化せしめられ、文化建設復興の原力として、たわやめぶりを練磨し、
なよ竹のみさを持せんと力(つと)めることこそ、わが悠久の文学史が、不断に教へるところではあるまいか。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

192 :無名草子さん:2010/05/20(木) 11:23:53
日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、強い単純性に
還元されるところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、くりかへされる夢が、
そのときどきの稔りをもたらしながら、又自然へ還つてゆくことだ。生命の短かさはかなさに抗して、
けばけばしい記念碑を建設することではなく、自然の生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、
一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。ギリシャ人は巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも
節度があつたが、日本人もこの点では同じである。

三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より

193 :無名草子さん:2010/05/20(木) 11:50:14
私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。
それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、オレンヂの樹の栽培について答へてゐる
やうなものだ。

三島由紀夫「小説とは何か」より

194 :無名草子さん:2010/05/21(金) 10:27:16
太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ。
坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから、明るくて、決してメソメソせず、
生活は生活で、立派に狂的だつた。
坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。なぜだらう。余計なものがなく、ガランとしてゐて、
空つ風が吹きとほつて、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向う側には、
夢のやうに明るい丸い遠景の光りが浮かんでゐる。この人は、未来を怖れもせず、愛しもしなかつた。
未来まで、この人はトンネルのやうな体ごと、スポンと抜けてゐたからだ。
太宰が甘口の酒とすれば、坂口はジンだ。ウォッカだ。純粋なアルコホル分はこちらのはうにあるのである。

三島由紀夫「坂口安吾全集 推薦文」より

195 :無名草子さん:2010/05/25(火) 12:04:05
刑事が被疑者を扱ふやうに、当初から冷たい猜疑の目で作家を扱ふ作家論が、いつも犀利な批評を成就するとは
限らない。義務的に読まされる場合は別として、私は虫の好かぬ作家のものは読まぬし、虫の好く作家のものは
読む。すでに虫が好いてゐるのであるから、作品のはうも温かい胸をひらいてくれる。そこへ一旦飛び込んで、
作家の案内に委せて、無私の態度で作中を散歩したあとでなければ、そもそも文学批評といふものは成立たぬ、
と私は信ずるものだ。ましてイデオロギー批評などは論外である。非政治主義を装つた、手のこんだ
政治主義的批評は数多いのである。
これが私の基本的態度であるから、はじめから気負ひ立つた否定などは、一度も企てたことがなかつた。
否定が逸するところのものを肯定が拾ふことがある。もしその拾つたものに批評の意味が発見されれば、
本書の目的は達せられたことにならう。

三島由紀夫「『作家論』あとがき」より

196 :無名草子さん:2010/06/09(水) 11:05:02
天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。

三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より


人間のあらゆるいやらしさと崇高さとがちっとも矛盾しないのが人間だと思うんです。

三島由紀夫
河上徹太郎との対談「創作批評」より

197 :無名草子さん:2010/06/09(水) 11:05:31
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと
別れるときの、あの辛さ、ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。
御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、
御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より


市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものは
それをどうしてもやらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

198 :無名草子さん:2010/06/09(水) 11:05:55
色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思います。あまりあり過ぎると、
女蕩(たら)しになる。生活者になってしまうと思う。
生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気のあり方、
そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より


美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

199 :無名草子さん:2010/06/09(水) 11:07:32
幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より


大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。
そのためには一億くらいの条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションに
ならないんだ。これはある意味で幸福だな。第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

200 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:11:27
なぜプラトンが、理想国家から詩人を追放したのか。それは自分に似ているからではないか。
理想国家の政治家にとっては詩人が自分たちに似すぎているからではないか。自分に似たものは、
ほかにはいらない。政治というのは、どうも人間の根元的な衝動に根ざしていると思う。
本来、政治と芸術というのは同じ泉から出ているのではないかと僕は思う。だから
排斥し合うのではないか。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


男というのはうぬぼれと、闘争本能以外にはないのではないかな。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

201 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:18:15
世界を回ってみますと、現在日本のように無階級な国はないように思う。実に不思議な国で、
アメリカはもっともっと階級がありますね。ステータス・シンボルがそれぞれあって、
クラブでも上のクラブに入らないと、お嫁さんのいいのが来ないとか。それから
なんだかんだと言って、一つ一つの関係が非常にうるさいですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

202 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:22:19
三島:…GHQと戦争裁判という問題はね、単なる思想問題として考えますと(いまや僕は、政治問題としての
意味よりも思想問題として影を落としていると思うのですが)GHQの理念、あるいは戦争裁判の理念というのは、
近代的普遍的諸価値のヒューマニズムがおもてだっているわけです。そうすると、戦後にそういう諸観念がもう一度
復活して、天下をまかり通って、同時にその欺瞞をあらわしたということで、僕はアメリカの影響というのは、
日本の戦後思想史には非常に強いというふうに考える。みんなが思っているよりも。というのは、アメリカという国は、
十八世紀の古典的な理念が、おもて向きいちばんのうのうと生きている国なんですね。アメリカはああいう
人種の雑種の国ですし、歴史は浅いし、インターナショナリズム的な観念でも、国内でじゅうぶん充足するわけです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

203 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:22:43
たとえばここにフランス系アメリカ人と、ドイツ系アメリカ人と、オランダ系アメリカ人の三人の話を通じさせるのに、
結局先祖のもとまでもどって、十八世紀的な理念で伝達するほかない。だから彼らは、自由といい、平和といい、
人類というときに、それは信じていると思う。それは彼らの生活の根本にあって、そういうものでもって国家を
運用し、戦争を運用し、経済を運用してやっている。それが日本にきてみた場合に、日本人がそういうような、
ある意味で粗雑な、大ざっぱな観念で生きられるかどうかという、いい実験になったと思う。(中略)
たとえば川島武宣の民法学を僕は習いましたが、民法学のなかにおいて、彼のギリギリの近代主義民法学ですがね、
そんなものは絶対日本の社会構造には妥当しなかった。戦後になってやってみた結果、アメリカが与えたと同時に、
アメリカ人の考えている自由、アメリカ人の考えている人類、アメリカ人の考えている平和というものは、
ベトナム戦争もやれるものであるということがわかってきたということだ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

204 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:23:17
これは大きな問題だと思う。そうすると、アメリカ人はベトナム戦争をやっても、やはり自由を信じ、平和を
信じていると思う。これは嘘ではないと思う。彼らはけっしてそんな欺瞞的国民ではありませんし、彼らは
戦争をやって自由のために戦っているというのは、嘘ではないですよ。彼らは心からそう信じている。
ただ日本人は、そんな粗雑な観念を信じられないだけなんです。というのは、日本で自由だの平和だのといっても、
そんな粗雑な観念でわれわれ生きているわけではありませんからね。そこに非常に微妙な文化的なニュアンスがあって、
そこのうえで近代的な観念が生きている。それが徐々にわかってきたというのが、いまの思想家全体の破綻の原因で、
それは結局アメリカのおかげだと思うのです。それを与えたのもアメリカなら、反省を促したのもアメリカですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

205 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:23:45
林:アメリカニゼーションは、日本の戦後のはっきりした現象ですが、その初期にはアメリカ出先機関の
アメリカニゼーションだったな。日本弱化と精神的武装解除の軍人政治にすぎないものを、アメリカニゼーションと
思いこんだのが三等学者です。新憲法とともに登場して来た三等学者がたくさんいる。
彼らが新憲法を守れというのは当然です。…
三島:…しかも、丸山(真男)さんなどでも、ファシズムという概念規定を疑わないのは不思議ですね。
ファシズムというのは、ぜんぜん日本にありませんよ。
林:絶対ありません。どう考えてもね。
三島:そういう概念規定を日本にそのまま当てはめて、恬然と恥じない。
今度彼らを分析していくと、別なものにぶつかるのですよ。丸山学派の日本ファシズムの三規定というのがありますね。
一つが天皇崇拝、一つが農本主義、もう一つは反資本主義か、たしかこの三つだったと思う。そうすると、
それはファシズムというヨーロッパ概念から、どれ一つ妥当しはしませんよ。
林:一つも妥当しない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

206 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:29:52
三島:はじめナチスは資本家と結んだのですからね。日本のいわゆる愛国運動というのは、もちろん資本家と
いろいろ関係も生じたけれども、二・二六事件の根本は反資本主義で、当時二・二六事件もそうだが、
二・二六事件のあとで陸軍の統制派が、二・二六事件があまり評判が悪かったので、今度、やはり反資本主義的な
ポーズにおける声明書を発表したら、麻生久がとても感激したのですね。やはりわれわれの徒だということに
なって、それで賛成演説などをやったりしたことがあるけれども、そういうファシズム一つとってもそうだし……。
林:(中略)「ファシズム打倒」は連合国側の戦争スローガンで、日本もドイツ、イタリアなみのファシズム国家に
されてしまったのだが、最近ではご本家のアメリカ・ハーバード大学の教授グループが、日本にはファシズムは
なかったことを論証し始めている。丸山君とそのご学友諸君は何と申しますかね。…それから二・二六事件にしても、
進歩学派諸君は支配階級内部の対立だというふうにかたづけているが……。
三島:事実はぜんぜん違っている。
林:これは一つの革命勢力と支配勢力との闘いだということを認めないわけですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

207 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:30:33
三島:僕は、ああいうものは、ある意味で林さんのおっしゃる、文明開化というものからくる一つの事象であって、
日本の近代化の激しい運動の、ラジカルな運動がああいう形をとったと考えてもいいと思いますね。いつも日本では、
アイロニカルな形で社会現象が起こっている。いちばん先鋭な近代をめざすものが、いちばん保守的な、
反動的な形態をとったり、一見進歩的形態をとっているものが、いちばん反動的なものである場合もある。
政治学者などが日本の現象を見る場合には、ぜんぜん分析が皮相で浅薄だという感じがいつもするのだけれども。
林:(中略)丸山君にこだわるわけではないが、あの人をピークとする敗戦学者の学問はいかにも学問らしい顔を
していますけれども、読めば少しも学問ではないのです。学問というのは、読んでみて、「ああ、そうだったか」と
目からウロコの落ちるような気になるのが学問です。敗戦大学教授の仕事は読者の目にウロコをかぶせるようなものですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

208 :無名草子さん:2010/06/16(水) 11:31:10
三島:ほんとうにそうですね。でも、近代主義者はとにかくだめだということは、二十年でよくわかった。
そうして日本の近代主義者の言うとおりにならなかったのは、インダストリアリゼーションをやっちゃった
ということで、これが歴史の非常なアイロニーですね。普通ならば、近代主義者の言うとおりに、思想精神が
完全に近代化することによって近代社会が成立し、そしてインダストリアリゼーションの結果、そういうものが
社会に実現されるという、じつは必ずしもコミュニズムであってもなくても、彼らの考えていることはそうですよ。
ところがなに一つわれわれのメンタリティーのなかには、近代主義が妥当しないにもかかわらず、工業化が進行し、
工業化の結果の精神的退廃、空白といってもいいが、そういうものが完全に成立した。
それと、日本人のなかにある古いメンタリティーとの衝突が、各個人のなかにずいぶん無秩序なかたちで
起こっているわけですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

209 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:07:29
三島:僕が思想家がぜんぜん無力だというのは、経済現象その他に対してすらなんらの予見もしなければ、
その結果に対して責任ももってないというふうに感ずるからです。
第一、戦後の物質的繁栄というのは、経済学者は一人も寄与してないと思いますよ。僕が大蔵省にいたとき
大内兵衛が、インフレ必至説を唱えて、いまにも破局的インフレがくるとおどかした。ドッジ声明でなんとか
救われたでしょう。政治的予見もなければなんにもない。経済法則というものは、実にあいまいなもので、
こんなに学問のなかでもあいまいな法則はありませんよ。
それで戦後の経済復興は、結局戦争から帰ってきた奴が一生懸命やったようなもので、なんら法則性とか
経済学者の指導とか、ドイツのシャハトのような指導的な理論的な経済学者がいたわけではないし、まったく
めくらめっぽうでここまできた。これは経済学者の功績でも、思想家の功績でもない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

210 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:08:28
三島:(中略)僕はたとえばね、どんな思想が起ころうが、彼ら(日本の近代主義者、知識人)はもう
弁ばくできないと思うのです。だって自分たちがやるべきときやらなかったのだから、あとに何が出ても
もうしょうがないですよ。
林:まず、現われたのがアメリカン・デモクラシー、おつぎはソ連礼賛論ですな。それを圧倒したのが中共絶対論。
……だが、それもどうやらしぼみ始めたようだ。
三島:とにかく僕が「喜びの琴」という芝居を書いたとき、共産主義は暴力革命は絶対やらないのだと、もう
そんなのは昔の古いテーゼで、いま絶対にそういうことはやらないのだと……あんな芝居を書く男は、頭が
三十年古いとみんな笑ったものです。そうしたらね、インドネシアの武力革命が起こりかけた。まあ、失敗しましたが。
ちょっと、五、六年さきのこともわからないのですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

211 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:09:23
三島:やはり林さんの明治維新の根本テーマでも、開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、
攘夷論者がやった。あの歴史の皮肉ですね。
林:攘夷論者のみが真の開国論者だった。これが歴史のアイロニイだが、敗戦史家たちには、このアイロニイが
わからないのだな。いまにわかります。
三島:そういう大きな歴史の皮肉ですね、そういうあれがあったでしょうか、戦前、戦後を通じて、文学で……。
林:アイロニイだらけだ。内村鑑三も新渡戸稲造も日本精神について英語で書いた。ドイツ文学の鴎外と
英文学の漱石が乃木大将の殉死を最も正確に理解した。現在、日本回帰の論文を発表しはじめた若い学者たちは、
ほとんど西洋史家だ。東西文明の接点に立つ日本文化のアイロニイではないでしょうか。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

212 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:10:54
林:(中略)若い高村光太郎は文明開化派で西洋派だったが、晩年はたいへんな日本主義者になる。
与謝野鉄幹、北原白秋をはじめ詩人たちの大部分は同じ道を歩いている。すべて内的な自己展開であって、
時流におし流されてものを言ったのではない。
三島:伊東静雄なんかも、戦争中のものは非常にいいですよ。ほんとうにいい詩ですね。
林:だから人間は戦争を避けて通ろうとしてはいけないのですよ。平和は結構だが、戦争は必ず起こると覚悟して
いなければ、一歩も進めない。平和が永久につづくなどと思っていたら、とんだ観測ちがいをおかすことになる。
地球国家ができましたら、こんどは宇宙船を飛ばして……。
三島:ほかの遊星を攻撃する……。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

213 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:14:50
三島:文壇というものがあるかないか、そんなことはわからないけれども、やはり時代のどこかで風船の空気が
漏れているところというのは敏感ですよね。いまたしかに風船の空気が漏れている。風船が小さくなりつつあるのです。
それで、その風船の空気を、また充填するか、その穴をどうするかということは、それは左翼も右翼もありはしない。
(中略)一方では空白状態をそのまま出せば正直だと思う。僕はそんなものは正直だとは思わない。つまり現在の空白、
現在の堕落――堕落と言ったらちょっと政治的な面がこもりすぎるが――文学というのは、そういうものを
映す鏡ではない。文学というのは、いつも医者と薬とを兼ねたものです。あるいは医者と患者を兼ねたものだと
言ってもいい。われわれは最先端の患者なんです。同時に最先端の医者なんです。それが文学の使命でね。
そうして医者だって、使命だけにとらわれたものは社会改良家になっちゃう。それは文学者の逸脱で、患者だってカルテにとらわれたら
空白状態を模写するだけにすぎない。そうするとサナトリウムに入っちゃう。そうなると文学者じゃないのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

214 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:15:42
三島:文学者というのはいつでも、最先端の患者であり、最先端の医者である。おのずからそこに、医者と患者の間には、
いつも争いがあって、患者は癒りたくないと言うかもしれない。医者はおまえに効く薬はないと言うかもしれない。
それが文学状況の、いつも先鋭なところで、それをつかまえてないやつは、文学のほんとうの危機というものは
わかってないのではないかと考える。それが現在のナショナリズムの問題とかなんとかいう問題と、おのずから
照応してくるので……。
林:君のいう型の文学者――医者兼患者の文学者は、文学者の永遠のタイプだろうが、生きにくいね。
ローマ帝国でも、ヒトラー帝国でも、中共帝国でもソ連帝国でも、詩人や作家は追放されなければ自殺してしまう。
だが、敗戦二十年間の日本は国家でも帝国でもない。大平社会は文学の味方顔しているが、最悪の敵かもしれぬ。
野放しにされた物書きが文学者顔して、ひどい文章を書いている。
三島:いま文壇にいるのは、患者と医者だけですよ。患者兼医者というのはいない。それで医者が患者をほめていますね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

215 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:18:36
弱いから文学になる。神経衰弱に文学、蔦には壁と同じで。ですけれども、文学が
寄りかかって、それで文学と弱さとのあいだに馴れ合いが起こるというのが、いちばん
嫌いですね。というのは、それだけなら文学などやる意味がないと思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


ことばは絶対に克己心を教えますね。それでことばというものにぶつかったときに、
つまり文学というのは、己れの弱さをそのまま是認するものではない、文学の世界に
ことばがあって、われわれに克己心を要求するのだということを学んだような気がする。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

216 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:40:52
常識的なことを言って、世間から紳士扱いにされて、一つご意見をうかがいたいと、
そうしてもっとも常識的な、良識的なことを言うのが作家じゃありません。
作家はそれぞれ狂気の代表なんですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


読書百ぺん、意おのずから通ず。中学生にもっと古典を読ませなければいかんな。
いやでもおうでも読ませたほうがいいですね。ただ現代語訳は絶対反対ですよ。
現代語訳の場合は、いまのやつは現代語訳を読んでああわかったと思っちゃうでしょう。
現代語訳を読んでから原文にあたってやろうというのは少ないと思う。だから現代語訳は
ないほうがいいと思う。「源氏」を読むのは原文しかないというほうが、ほんとうだと思いますよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

217 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:43:24
ことばはどんなことしたって、インターナショナルではあり得ないですね。
僕らはことばに携わるのだから、世界がどんなにテクノロジーと生活水準の平均化によって
インターナショナルになっても、あるいは思想もインターナショナルになっても、
ことばだけはダメ。それだから、ことばに偏執する。ことばはプラクティカルな意味では
どうにもなることでも、そうでないところで、われわれは立派に偏執する。われわれの
ナショナリズムというのはことばですよ。僕は、言霊説ですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

218 :無名草子さん:2010/06/21(月) 11:52:42
僕たちのことばが、外国語に翻訳される場合に、人情は通じると思うのですよ。
人情は通じると思いますが、ことばは通じない。(中略)
たとえばある橋を渡ったという場合に、その橋という観念のなかに、どういう橋が
イメージとして浮かんでくるか。そのイメージだけは、どんなことをしても伝えられない。
文学はそれでいいのではありませんか。
ゲーテの小説を日本語で読んで、橋(ブリユツケ)ということばが出てくるとき、
その橋がドイツのどこの橋がゲーテの頭のなかにあったか、そんなことがわれわれに
わかるわけがないですよね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

219 :無名草子さん:2010/06/22(火) 11:12:12
僕は、アジア主義だけはちょっとわからない。政治的にはもちろんわかり得ると思うが。
まったく政治的なものですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


ヨーロッパ共同体というものは文化的には昔からあったのだから、それが伝統に帰ることであり、
そうして普遍的ヨーロッパに帰れということを、ゲーテは言いたかったわけですね。
しかし日本では、普遍的ヨーロッパというものは、日本にとってはぜんぜん別なものでしょう。
それから普遍的アジアというものは、文化的にはない。だから日本にとっていま
世界文学などというのは、ちゃんちゃらおかしいということになるわけです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

220 :無名草子さん:2010/06/22(火) 11:15:29
ことばというものは一歩プラクティカルなことを考えたら、絶対こんな不合理なものはない。
ことばの性質というものは、そういうものです。ことばというのは、そもそも人間の意思を
疎通させるために、生まれたものであるにもかかわらず、もしプラクティカルな見地からしたら、
実に非合理に満ちているという。これはどこの国のことばでも、みなそうです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

221 :無名草子さん:2010/06/23(水) 11:17:28
神風連のことを研究していて、おもしろく思ったのは、かれらは孝明天皇の攘夷の御志を、明治政府が完全に転倒させ、
廃刀令を出したことに対して怒り、「非先王之法服不敢服、非先王之法言不敢道、非先王之徳行不敢行」という
思想を抱いていた。万世一系ということと、「先帝への忠義」ということが、一つの矛盾のない精神的な中核として
総合されていた天皇観が、僕には興味が深いのです。
歴史学者の通説では、大体憲法発布の明治二十二年前後に、いわゆる天皇制国家機構が成立したと見られているが、それは
伊藤博文が、「昔の勤皇は宗教的の観念を以てしたが、今日の勤皇は政治的でなければならぬ」と考えた思想の実現です。
僕は、伊藤博文が、ヨーロッパのキリスト教の神の観念を欽定憲法の天皇の神聖不可侵のもとにしたという考えはむしろ
逆で、それ以前の宗教的精神的中心としての天皇を、近代政治理念へ導入して政治化したという考えが正しいと思います。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

222 :無名草子さん:2010/06/23(水) 11:18:04
(中略)明治憲法の発布によって、近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、「天皇神聖不可侵」は、
天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、九十九パーセントの西欧化に対する、
一パーセントの非西欧化のトリデが、「神聖」の名において宣言されていた、と見るわけです。神風連が電線に対して
かざした白扇が、この「天皇不可侵」の裏には生きていると思う。殊に、統師大権的天皇のイメージのうちに、
攘夷の志が、国務大権的天皇のイメージのうちに開国の志が、それぞれ活かされたと見るのです。これがさっきの
神風連の話ともつながるわけですが、天皇は一方で、西欧化を代表し、一方で純粋な日本の最後の拠点となられる
むずかしい使命を帯びられた。天皇は二つの相反する形の誠忠を、受け入れられることを使命とされた。
二・二六事件において、まことに残念なのは、あの事件が、西欧派の政治理念によって裁かれて、神風連の
二の舞になったということです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

223 :無名草子さん:2010/06/23(水) 11:18:33
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、
西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、という
アイロニカルな歴史意志を考えるのです。
福沢諭吉と神風連が実に対蹠的なのは、明治政府の新政策によって、前者は欣喜し、後者は幻滅した。僕は
幻滅によって生ずるパトスにしか興味がない。幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、
西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北はいつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を辿ってきた。
唯一の成功した革新は、外国占領軍による戦後の革新です。
僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への
洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

224 :無名草子さん:2010/06/23(水) 11:19:32
しかるに昭和の天皇制は、内面的にもどんどん西欧化に蝕まれて、ついに二・二六事件をさえ理解しなかったではないか。
そのもっとも醇乎たる悲劇意志への共感に達しなかったではないか。「何ものかを汲みとろう」なんて言うと
アイマイに思われるでしょうが、僕は維新ということを言っているのです。天皇が最終的に、維新を「承引き」
給うということを言っているのです。そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、非西欧化の
最後のトリデとなりつづけることによって、西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の
原理になり給うことです。イギリスのまねなんかなさっては困るのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

225 :無名草子さん:2010/06/23(水) 11:23:05
僕は天皇無謬説なんです。
僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ。
革命家がある場合には旧支配の頂点によって肯定されるという妙なことが起こり得るのが、日本ではないのですか
というのです。
…つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、
いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的
皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。
天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。
それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

226 :無名草子さん:2010/06/23(水) 11:26:55
(中略)僕は大嘗祭というお祭りが、いちばん大事だと思うのですがね。あれはやはり、農本主義文化の一つの
精華ですね。あそこでもって、つまり昔の穀物神と同じことで、天皇が生まれ変わられるのですね。そうして
天皇というのは、いま見る天皇が、また大嘗祭のときに生まれ変わられて、そうして永久に、最初の天照大神に
かえられるのですね。そこからまた再生する。
…僕は、経済の発展的な段階というものを、ぜんぜん信じてないのですね。農耕文化なり、なに文化なり、
資本主義から社会主義になるというのは、まったく信じてない。だけれどもインダストリアゼーションは、土から、
みんな全部人間を引き離すでしょう。そしてわれわれのもっているものは、すべて土とか、植物とか、木の葉とか、
そういうものとはどんどん離れていく。それで土を代表するものはなにかとか、稲の葉っぱを代表するものは
なにかとか、自然というものと、われわれの生活とを最後に結ぶものはなにか。それは、たまたま、ことばは
農本主義と言っても、経済学上の用語としての農本主義とちょっと違いますが……。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

227 :無名草子さん:2010/06/23(水) 11:28:45
(中略)天皇制というのは、少しバタ臭い解釈になるが、あらゆる人間の愛を引き受け、あらゆる人間の愛による
不可知論を一身に引き受けるものが天皇だと考えます。普通の人間のあいだの恋でしょう……。
恋(れん)ですね。それは普通の人間とのあいだの愛情は、みなそれで足りるのですよ、全部。それがぼくは
日本の風土だというふうに思うのです。
(中略)
僕にとっては、芸術作品と、あるいは天皇と言ってもいい、神風連と言ってもいいが、いろいろなもののね、
その純粋性の象徴は、宿命離脱の自由の象徴なんですよ。つまりね、一つ自分が作品をつくると、その作品は
独得の秩序をもっていて、この宿命の輪やね、それから人間の歴史の必然性の輪からポンとはみ出す、ポンと。
これはだれがなんと言おうと、それ自体の秩序をもって、それ自体において自由なんですね。
その自由を生産するのが芸術家であって、芸術家というものは、一つの自由を生産する人間だけれども、自分が
自由である必要はない、ぜんぜん。そしてその芸術作品というのはある意味では、完全に輪から外れたものです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

228 :無名草子さん:2010/06/23(水) 12:45:42
日本のように反体制的大政党を抱えた国が、シヴィリアン・コントロールをやるということは、
危険きわまる体制じゃありませんか。(中略)
昔は上官から天皇まで一貫していた。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


一度、僕は新聞に原爆のことを書いたことがある。そして、ナセルが「落とすなら
原爆を落としてもいいよ」とか、中共が「水爆を落としてもいいよ、われわれは人口
七億だから、半分なくなってもあと戦える」と言った、ああいうのはもっとも危険な
思想だろうと、そういうことを書いたら、没になったことがあるのです、だいぶ前に。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

229 :無名草子さん:2010/06/23(水) 12:53:04
橋川文三なども言っているけれども、戦争中の特攻隊の連中でも、それから戦没学徒の心情でも、
死ななければ国家を批判はできない、死ぬことによってはじめて国家を批判できるという。
日本人の最高のものに対する批評の形式というのは、死しかないというあれは、かなり
切腹のみにとどまらず、いろいろな形であらわれているものだと思いますね。つまり、
批評と絶対との関係というものは、僕はおよばずながら「英霊の声」などを書いたときに、
ふっと、その問題をかいま見られたような感じがした。つまり絶対を批評するということが
できるか、できないか、これはだれもわからないことですね。だけれどもその批評形式としては、
死しかないということはありますね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

230 :無名草子さん:2010/06/23(水) 12:55:10
日本人は、最高の批評の形式というのは、ことばのないものでしかないという考えが
どこかにある。それは、禅の不立文字からきたものばかりではないと思いますね。
体当りと言えばそれまでですが、なんか自己否定という形が批評になると、こっちに
主体があって、対象を分析したり、対象を論理的に解釈することが批評ではないのだと、
こっちが自分を根本的に否定して見せることが批評なんだというような、批評の根本形式が
あるように思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

231 :無名草子さん:2010/06/23(水) 12:56:09
――それはそうと、この間江田島の参考館へ行って、特攻隊の遺書をたくさん見ました。遺書というのではないが、
ザラ紙に鉛筆の走り書きで、「俺は今とても元気だ。三時間後に確実に死ぬとは思えない……」などというのがあり、
この生々しさには実に心を打たれた。
九割九分までは類型的な天皇陛下万歳的な遺書で、活字にしたらその感動は薄まってしまう。もし出版するなら、
写真版で肉筆をそのまま写し、遺影や遺品の写真といっしょに出すように忠告しました。
それにしても、その、類型的な遺書は、みんな実に立派で、彼らが自分たちの人生を立派に完結させるという
叡智をもっていたとしか思えない。もちろん未練もあったろう。言いたいことの千万言もあったろう。
しかしそれを「言わなかった」ということが、遺書としての最高の文学表現のように思われる。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

232 :無名草子さん:2010/06/23(水) 12:56:35
僕が「きけわだつみのこえ」の編集に疑問を呈してきたのはそのためです。
そして人間の本心などというものに、重きを置かないのはそのためです。もし人間が決定的行動を迫られるときは、
本心などは、まして本心の分析などは物の数ではない。それは泡沫のようなただの「心理」にすぎない。
そんな「心理」を一つも出していない遺書が結局一番立派なのです。
それにしても、「天皇陛下万歳」と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、
何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感は
いったい何だったんだろうか。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

233 :無名草子さん:2010/06/28(月) 10:23:42
テレビの場合、ぼくらは実にニュース取材というのは困るんです。うっかり映像を出すと、
映像にウソはつけない。私がカメラの前に立つ、何かをしゃべる。何かをやる、それを
フィルムではどうにでもなるということですね。しまいにちょっとしたコメントリィを
つけて「……と三島は意気揚々、過激な言論を吐いて高笑いをしていた」なんていわれたら、
これはもうマンガになっちゃう(笑)
マンガにされるのも悲劇にされるのも、みんな向こう様の自由。ですから言論の自由にしろ、
偏向にしろ、われわれは実に微妙なところで生きているということです。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

234 :無名草子さん:2010/06/28(月) 10:26:26
タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。
子供が「先生、スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、
その無着が「チミ、それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうの
ハナスと違うの。…アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがらスサノオノミコト、ツウ人が
いだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、まんず、田んぼ荒らして米とれなぐしたの。…それがら
機織りをこわして……(中略)」(笑)
これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な
生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。
そして神話的なことを全部リアリスティックに教えている。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

235 :無名草子さん:2010/06/28(月) 10:26:57
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

236 :無名草子さん:2010/06/28(月) 10:28:08
清らかなものはそっとしておきたいって気持ちがとても強いんだけれども、清らかの
まわりには濁流がうずまいている。われわれが清らかなものをもとうとすると、
清らかなものだけもっていたら、どんどん押流されてしまう。エロティックというのは
清らかなものの中にもあるんだ。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

237 :無名草子さん:2010/07/02(金) 13:14:38
核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。
…それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。
というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、兵隊の数と強い
兵器をもっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。
いままでは兵器は使えるからこそ強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。
広島で使ってあんな惨禍を起こして使えなくしてしまった。使えない兵器というのは、あるいは力というのは
恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。
そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対するものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方から
しみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。それをみて被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

238 :無名草子さん:2010/07/02(金) 13:15:07
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。
つまり女が男にだまされたといって訴えるようなものです。とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、
なぐられることだと。そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。
それで全学連がヘルメットの下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと
垂れるようになっているという話もききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。なぜなら向こうは力が使えないに決まって
いるんだから。それが世論であり、女の勝利だと思うんですね。女はあくまで「弱い女をどうしてこんなに
いじめるんだ」と、断然反対してくる。すると男はそれ以上、腕力をふるえないから負けちまうわけですね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

239 :無名草子さん:2010/07/02(金) 13:16:01
…力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。(中略)
われわれの主張は正しいのに、こんなに弱い、武器をもたない学生がやられているじゃないかと、頭から血が
流れているじゃないかと。全学連を非難する人たちも、やっぱりおしゃもじをもって、主婦連じゃないけれども、
弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。
これは世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは加害者であったら
たいへんなことになっちゃう。
自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。そして
警察の悪口がいわれるのは、警察が力だということがはっきりしているからですね。力をもっているやつは
かなわない世の中になっちゃっている。これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと
思って評価したらまちがいで、あれは弱さの力なんですね。
それをいちばん象徴しているのは、ぼくは核と世論というものの関係だと思います。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

240 :無名草子さん:2010/07/02(金) 13:16:31
…「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。
暴力団の不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。
…われわれに罪もなければ責任もない、教師が悪い、社会が悪い、政治が悪い、経済が悪いというんです。
お巡りは閉口してしっぽを巻いて逃げ出すんです。
ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。いつも個人が責任をとらないからです。
それは現体制にも責任があるんで、誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。
そうすると金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。
これは人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

241 :無名草子さん:2010/07/02(金) 13:17:04
(中略)たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、…何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、
基地をほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中に
はいってきたら、撃っちまえばいいんですからね。
…向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑)

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

242 :無名草子さん:2010/07/02(金) 13:19:37
…もうひとつは自立という問題に関係するんですが、自衛隊がどうもいざというときには、アメリカの指揮で
動くんじゃないかという心配をみんなもっているわけですよ。
これは自衛隊によく聞いてみても、最終的な指揮権がどこにあるかということになると、実にむずかしいですね。
…最終指揮権については、いろんなカバーがあるわけですね。
…私はどうしても日本人の軍隊をもたなければいかん、どんなに外国から要請があっても、条約がない限り動かんと、
あるいはこっちはこっちの判断でやっていく軍隊がなければならん、そうすると、どうすればいいんだということを
いろいろ考えた。どうしても二つに自衛隊を分けて、全くの国土防衛軍と、それから国連協力軍の二つに分ければいい。
…ぼくは陸上自衛隊の九割までは国土防衛軍でいいと思う。そうすれば、その軍隊はどんなことがあっても
日本をまもるため以外は動かないんだから、国民の信頼を得ますよね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

243 :無名草子さん:2010/07/02(金) 13:20:16
(中略)
防衛大学の学生なんかに聞きますと、われわれの軍隊はシビリアン・コントロールの軍隊であると。
だから政権がかわれば、それに従うのは当然だと。日本に共産政権ができれば、われわれは共産軍になるのは
当然だという考え方をするのが、かなり多いらしいですね。
そういう考え方は間違いだということを世間はこわいから教える自信がないんです。これは軍隊の重大な問題で、
自衛隊というのは、もともとイデオロギッシュな軍隊であるということを、もっと周知徹底させないと……。
それを世間でたたき、国会でたたき、ぼくにいわせると、イデオロギー的な軍隊であるけれども、名誉の中心は
やはり天皇であるというところで、すこし極端ですが、そこまでいかなければだめだと思うんです。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

244 :無名草子さん:2010/07/07(水) 10:51:00
三島:…少なくとも自民党が危ないときになって国民投票をやったとします。そうしてウイかノンかといのを
国民に問うたとします。できることは、安保賛成(ウイ)か安保反対(ノン)かどっちかしかない。
安保賛成というのは、はっきりアメリカですね。安保反対というのはソビエトか中共でしょう。日本人に向かって
おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるかといったら、僕はほんとうの日本人だったら態度を
保留すると思うんですね。日本はどこにいるんだ。日本は選びたいんだ、どうやったら選べるんだ。
これはウイとノンの本質的意味をなさんと思うんですよ。
…まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況にいる。
これで安保騒動をとおり越しても、まだやれないんじゃないかという感じがしてしようがない。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

245 :無名草子さん:2010/07/07(水) 10:51:25
三島:それで去年の夏、福田赳夫さんと会ったときに、
「自民党は安保条約と刺しちがえて下さいよ」と言ったんですよ。私が大きなことを言うようですが、
私の言う意味は、自民党はやはり歴史的にそういう役割を持っている、自民党は西欧派だと思うんです。
西欧派は西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい。
その次に日本か、あるいは日本でないかという選択を迫られるんであるというふうに言ったことがある。
いま右だ左だといいましても、安保賛成が右なのかということは、いえないと思うんです。
安保賛成も一種の西欧派ですよ。安保反対はもちろん外国派です。
そうすると国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していないですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

246 :無名草子さん:2010/07/07(水) 10:51:40
三島:ですからナショナリズムの問題が日本では非常にむずかしくなりまして、私が思うのに、
いま右翼というものが左翼に対して、ちょっと理論的に弱いところがあるのは、われわれ国粋派というのは、
ナショナリズムというものが、九割まで左翼に取られた。
だって米軍基地反対といったって、イデオロギー抜きにすれば、だれだってあまりいい気持ちではない。
それからアメリカは沖縄を出て行け、沖縄は日本のものであったほうがいい、なにを言ったところで、
左翼にとってみれば、どこかで多少ナショナリズムにひっかかっているから広くアピールする。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

247 :無名草子さん:2010/07/07(水) 10:51:54
三島:そうして私は、ナショナリズムは左翼がどうしても取れないもの――九割まで取られちゃったけれども、
どうしても取れないもの、それにしがみつくほかないと信じている。だから天皇と言っているんです。
もちろん天皇は尊敬するが、それだけが理由じゃない。ナショナリズムの最後の拠点をぐっとにぎって
いなければ取られちゃいますよ。そうして日本中が右か左の西欧派(ナショナリズムの仮面をかぶった)になっちゃう。
林:(中略)僕は今の左翼の“ナショナリズム”は発生が外国指令だと思う。
いくら彼らに教えても反米はできるが反ソ、反中共はできない。したがって尊王ということは、彼らにとっては、
もってのほかです。(中略)
三島:(中略)やつらは天皇、天皇といえばのむわけないです。
のむわけないから、やつらから天皇制打倒というのを、もっと引出したいですよ。(中略)
これをもっとやつらから引出さなければならない。
やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと思っているんですがね。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

248 :無名草子さん:2010/07/07(水) 10:52:36
僕は理論なんか根底的に必要じゃないと思うんです。根底的には誠だけでいいんですよ。
誠以外になにがいりますか。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

249 :無名草子さん:2010/07/07(水) 10:54:22
最近感心したのは、大東塾の靖国神社問題に対する対処の仕方ですね。これには感心している。
つまり靖国の霊を国が神道の祭祀にしたがって顕彰し、弔うべきだというだけのことです。
彼の言いたいことは。それを政治家だとか、いろんな圧力団体がそうさせない。
遺族会すらそういう本旨を誤っているという場合に、だれがその思想をとおすのか。
その思想をとおすのに、言論だけでたりるのか。どの政治家のところへお百度詣りしたら、
それをとおしてくれるのか。人間がそういうことを考えたら、それをとおす方法といったら、
やっぱりぶんなぐるほかないでしょう。だからちょっとぶんなぐったでしょう。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

250 :無名草子さん:2010/07/07(水) 10:54:37
政治家をぶんなぐることがいいかどうかわからない。ただ影山(正治)氏の塾の人が
やったことは、ある一つの思想をとおすには、どうしても法的にも、議会政治の上でも、
どうしてもとおらない。しかしそれが日本にとって本質的なものだと考えたら、
あの方法しかないんじゃないですか。その方法の良し悪しというよりも、あの方法しか
ないからやったんでしょう。そういうふうな、どうしてもやらなければならんことで、
ほかに方法がないということをやるために右翼団体というものはあるんだと思うし、
塾というものがあると思うんだ。それはその姿勢は守らなければならない。それを捨てたら
だめだと思うんですよね。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

251 :無名草子さん:2010/07/07(水) 10:54:52
日本人というのは自分の主義主張のためには体を張るものである、命を最終的に
惜しまないものであるという伝統的なメンタリティーがある。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

252 :無名草子さん:2010/07/09(金) 23:54:42
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。



日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。



知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。


三島由紀夫「新知識人論」より

253 :無名草子さん:2010/07/09(金) 23:55:13
命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。



知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。
…権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば
よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として
動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。
私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。

三島由紀夫「新知識人論」より

254 :無名草子さん:2010/07/16(金) 12:13:45
ゴンブローヴィッチはエロティックでない哲学なんて信用できないという。青年がなぜ
特権を持っているか。それはエロティックということです。学生新聞の文章を読んで
ごらんなさい。妙な観念的なことを書いていて、何を言わんとするのか全くわけがわからない。
だけど性欲が過剰だということだけはよくわかる。(中略)
西洋人を見ているとわかるでしょう。いい年をして脂っこいセックス。(中略)
ああいうものを持っているということは絶対肉体からくるので、日本人にはちょっと
わからないようなところがある。西洋の哲学でも思想でも、みなああいうものを
抜きにしては考えられない。宗教もそうでしょう。キリスト教で抑圧した性欲の激しさ
というものはすごい。だからバタイユとかクロソウスキーみたいな作家が出てくる。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

255 :無名草子さん:2010/07/16(金) 12:15:45
ぼくは自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、
太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向かっていつも最後に飛んでいくのですが、
したがって、それを唆かすのはいつも母的なものなんです。…ずいぶん右翼のいろんな
手記を読んだりしたけど、おふくろがみんないいおふくろで、息子の行動を全部是認している。
…おふくろの力というのはとても大事なんです。右翼のあれを読むと、みなおふくろ好きなんです。
イタリアのギャングが帰着するところは全部おふくろなんです。(中略)
いくら女を締め出してもだめです。最終的におふくろが出てくる。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

256 :無名草子さん:2010/07/16(金) 12:18:17
三島:ぼくはいま安岡君の「幕が下りてから」を読んでいるのだけれども、あんなに
人間が背が高くなることを信じない人というのはつらいだろうな。
中村:それはおもしろい。そういう意味ではあの人は魅力がない。
三島:魅力がない。

中村:とても悧巧だからね。

三島:大江君は、少なくとも背が高くなるという可能性は信じているでしょう。自分は
絶対ならないけれども、誰かがなるだろうということを信じている。それが自意識と
結びついて変なことになっちゃうかもしれないけれども、少なくとも安岡君とちがうのはそこだ。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

257 :無名草子さん:2010/07/16(金) 12:27:41
三島:…作家がピエロというのは前提条件で、どこからどこまでピエロなんだから、
自分でピエロだといったらピエロでなくなっちゃう。つまりピエロが出てきて、
私はピエロですピエロですといったら絶対ピエロでなくなっちゃう。メドラノの曲馬、
あれは悲しそうだからいいので、私はクラウンですよといったらクラウンでなくなる。
日本の私小説というのはどうもそういう感じがする。(中略)
太宰は、私はクラウンですよと絶えずいっていた。だからおもしろくもおかしくもないし、
そんな当たりまえなことをいうなと言いたくなる。

中村:太宰はともかくとして、日本の私小説は大まじめで、大いに悲劇的な表情で
喜劇的なことをやってたんじゃないの。

三島:自分が気がつかないでね。自分が気がつかないというのはクラウンとはちがう。
クラウンは全部知っている。そして一生懸命やる。人は大笑い。それが芸術家だと思う。
日本の小説家は自分がクラウンだということを知らない。そして私はクラウンですよ
というのだけれど、腹の底でそう思っているかどうかはわかりません。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

258 :無名草子さん:2010/07/16(金) 12:34:28
三島:もし自分はクラウンだといえば、どこかの女が、冗談おっしゃってはいけません。
クラウンじゃありませんよと……。

中村:必ず言ってくれると思っている。

三島:あれは耐えられない臭味だな。

中村:とくに太宰はね。

三島:耐えられない。ぼくは安岡君のものを読んでも気に食わないのもそれなんです。
安岡君が、「私」は醜男だ、どうせ滑稽だ、女房にいじめられてばかりいるとか、
そんなことはちっともおもしろくもおかしくない。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

259 :無名草子さん:2010/07/16(金) 12:41:24
三島:…つまり、どこかでなあなあでなれ合いで、おれはこうやっていても、おれの
偉いということは人がわかってくれているのだぞ、ということがどこかに残っているからですよ。
そんな意識は捨てたればいい。
ぼくの理解者がどこかにいて、ぼくのことを偉いと思っていたら、ぼくは偉いというふうに
すればいいじゃないですか。人が偉いと思ったら偉いと思えばいいし、人が滑稽だと
思ったら滑稽であればいいので、それについて自分は偉いとか滑稽とかいう必要は毛頭ない。
安岡君はいつも自分はクラウンだというふうに自己規定する。あれは狡いと思う。
安岡君をまじめにとっている人がいくらでもいるだろう、そういう人間に対して失礼だと思う。
読者を考えた場合に、読者に対する礼儀というものは非常に大事だと思う。読者がもし
ぼくをある一点においてまともにとってくれているなら、ある一点でまともなんですよ。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

190 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)